シティボーイは泣かない。

古い引き出しの奥に、ずっとしまわれていた手紙のような話。

窓枠の花火

生まれて間もなく先天性の病気が見つかり、生死の境をさまよったことがある。おかげさまで開腹手術は、一歳か二歳の頃と、八歳の頃を合わせて二回経験済。病名は伏せる。10万人に1人くらいの確率の病気。度合いにもよるのだけれど、シテイナンビョウ?だったらしい。それは最近知った。

最初の手術の記憶はほとんどない。覚えているのは、病室から見えた地元の花火大会のビジョンだけ。それだけ。
八歳頃の手術の記憶はある。手術前は何も食べさせてくれなかった。一ヶ月の間、常に空腹。両鼻から太いチューブが通っているとか、いつも点滴の針が刺さっているとかよりも、そっちのほうが苦痛だった。術後の絶食期間が終わった後に食べたいものリストを作った。四角い小さなメモ帳に、思いついた時、食欲のままに書いた。

母方の祖母は手帳に「この子は三歳まで生きられないだろう」と書いていたらしい。そんな僕はもうすぐ22歳になろうとしている。
僕のサッカーの試合の見に来た際、走っている姿を見て祖母は号泣した。その祖母は今から7年ほど前に他界した。結果として、僕の方が長生きしてしまった。

同じ病室にいた年上の女の子は、僕より重い病気を患っていた。移動は常に車椅子で、体には何本かのチューブが通っていた。何の会話をしたとか細かいことは忘れてしまった。当時の僕は人見知りだったから、まともな会話もしていないだろう。
僕の方が先に退院してから、一度だけ偶然会った。きっと、外泊許可を貰っていたのか。それとも自宅療養に切り替えたのか。理由は聞かなかった。ちょうどお互い家族で買い物に来ていたところだった。僕は普通に歩いていて、彼女は車椅子だった。
それ以来、彼女には一度も会ってはいない。

17歳の夏に、当時片思いだった女の子と花火大会に行った。幼い時、病室から見えたあの花火大会の花火だ。その子には初めてそのとき病気したことを話した。よく生きてたね。って言葉が返ってきた。確かにその一言に尽きるよな。あのとき死んでたらここにはいないもんな。
車椅子の彼女も、どこかであの花火を見ていたと思う。

今は普通に生きているし、美味しいご飯も食べられている。たくさん運動もできる。些細なことでも落ち込む。失恋だってするし、学業や仕事で失敗もする。生きてるから。ただ、いつか再発or悪化するかもしれないってたまに思うことがある。そんなことない気がするんだけど、もしかしたら明日ポックリ逝ってしまうかもしれない。それは病気でなくとも、交通事故かもしれないし、通り魔に刺されて死んでしまったりなのかもしれない。

頑張らなくても時間は進むし、ぼっーとしてても生きていける。ただ、僕は今日与えられたその時間を、できる限り大切に生きたいと思う。頑張らなくてもいい。食べたいものを食べればいい。自分にご褒美が必要なときは、もういいやというくらいまで甘やかしてあげればいい。大切な人が、大切な物が消えてしまう前に、愛してあげればいい。会いたい人がいれば、直ぐにでも会いに行けばいい。

もしかしたら、自分もあの人も、明日にはいなくなってしまうかもしれない。だからこそ、僕は今日を大切に生きる。ずっと先の未来のために。いつ消えてしまってもいいように、今日を大切に。