シティボーイは泣かない。

古い引き出しの奥に、ずっとしまわれていた手紙のような話。

エンドロールが終わる頃には。

教育実習に行くことを辞めた。まだ辞退の書類を全て送り出していないので、正式には辞めたことにはなっていないが、今後の見通しや自分のキャパシティを考えた結果、最終的な判断は自分で決めた。

ある日突然、荷物が軽くなった。同時に、頂上の景色を拝まずに下山することになった。ただ、あの山の頂から見える景色が、今後の自分の将来に大きく影響しないことは、六合目半ばで少しばかり気づいていた。

教育実習担当の先生に辞退の意志を告げた帰り道、大学の正門を出てすぐの自動販売機でミルクティーを買った。130円。自動販売機のディスプレイの端で、冬を越せなかった足の長い蜘蛛が、くしゃくしゃの紙切れのようになって死んでいた。

何かを途中で辞めたのはこれが初めてだった。最後まで耐えられなかった自分を、友人たちは罵るだろうか。それとも嗤うだろうか。頭の中で聞きたくもない言葉が、ぐるぐると駆け巡った。とても惨めな気持ちがした。ただ、それと同時に自分のやりたいことに向かって、持て余す時間とお金の全てを賭けられるという事実、悪く言えば博打なのだが、それが嬉しくも感じた。

物事の終わりは実に単純で、大抵が予期せぬタイミングで訪れる。そして、今までの夢や努力がまるで一枚の布切れだったかのように、残酷に呆気なく破れて消える。

4年前の春、小学生の頃から続けていたサッカーを引退した。9年間の努力は、まるで映画のようにドラマに満ち溢れていたのだが、エンドロールは物語中盤で呆気なく流れ始め、エンドロールが終わる頃には、客席には誰も残っていなかった。まだ物語はこれからも続くはずだった。三年生最後の地区予選の一回戦を難なく制し、準決勝まで上り詰め、県大会への切符を手にいれる。まだ成し遂げていない事が山というほど残っていた。それでも結果は一回戦負け。スコアは0-3。勝てるはずの試合だった。芝生を手で鷲掴みにして泣いた。チームメイトに抱えられながら、客席に最後のお礼を言い、ピッチを去った。

客席への挨拶を終えピッチの外へ出て、ベンチに戻った。悔しそうに涙を流しながら天を仰ぐ者。芝生の上にうずくまる者。ただその場で呆然としている者。それぞれがサッカーに賭けた青春の重さを痛感した。

最後のミーティング。悔しさと焦燥で、誰もが顔を上げる事ができなかった。ロッカールームでもない、ただひたすらに日差しが照りつけるアスファルトの上に、全員が体育座りをして、隣のブロックの試合を横目に俯いていた。

「お前たち、これが最後でもいいのか。まだ戦えるんじゃないのか。なんでこの程度で泣いているんだ。」

不意に顧問から発せられた言葉に耳を疑った。結果を出せなかった僕たちに対しての悔しさと怒り、それから夏の選手権まで戦えという意味が籠められていた。おそらく、あの場にいた誰もの心に刺さっただろう。ここで終わるはずではないと思っていたのは誰もが百も承知だ。ただ、誰も夏の選手権まで残ることは考えていなかったに違いない。春の総体で結果を残して、後腐れなくピッチを去り、受験を迎える。例え栄冠に満ちた最後を迎えられなかったとしても、この大会が最後。悔しい結果に終わったとしても、それを次に活かして新しい人生に向けて再出発する。きっと、誰もがそう思っていただろう。少なくとも、僕はそう決めていた。引退してからの進路は、美術系の大学を受験する事が決まっていたので、夏の選手権終わりから準備をするのは些か無理あったからだ。

ミーティングが終わり、後輩たちが帰ってから、三年生だけ顧問の元へ集められた。

「いいか。一週間だけ時間をやる。じっくり考えてこい。答えが出たら、俺のところへ来い。まだ戦えるかどうかの意思表示をしろ。いいな。一週間だ。」

顧問はそう言った。非常勤講師で僕たちと同じ年にこの高校へ配属され、一年目からサッカー部を任されていた先生。つまり、三年間僕たちと共に、このチームを作り上げてきたのだ。教科は保健体育。高校時代は全国大会でキャプテンマークをつけ、国体の選手にも選ばれたような、殿上人だった。

一週間。長いようで短い。帰り道は誰もが口を閉ざしていた。恐らく、それぞれが様々なことを頭の中で反芻していたに違いない。僕たちはこのままどこへ向かうのだろうか。夕日が沈む海岸線を、ただひたすらに送迎の車は走る。まだ夏には程遠い。春の名残を残した海岸を、カップルたちがじゃれ合いながら歩いていた。

決して才能に恵まれた特別な選手などではなかった。利き足が左だったことと、足が速かったこと、負けず嫌いなところ。それらを含めても、本当にどこにでもいる平凡な選手だった。練習はサボらずに毎日参加した。居残りをして自主練習をしたこともあった。それ相応に褒められ、叱られた。チームの期待に応えた試合もあれば、お荷物扱いされてベンチに座ることしかできなかった試合もある。本当に、誰もが運動部として戦っていれば、経験したことのある平凡さだ。好きな女の子のスタンドからの声援など聞いた事がない。試合を見にくるのは決まって、両親だった。ただ、一度だけ祖母が僕の試合を見にきた事があったと思う。あの時、祖母をあっと驚かせるような活躍ができたかは覚えていないが、僕は生まれてから病気を患っていたので、あの病気が嘘だったかのように走り回る僕を見て、祖母は涙が止まらなかったらしい。その祖母は、数年前に他界してしまった。病気を患い生死の境を彷徨った僕が、結果として祖母より長生きしているのだけれど、きっと祖母はそれを願っていただろうから、おばあちゃん孝行にはなっているのかもしれない。

初めてサッカーボールに触れたのはいつだっただろうか。古いアルバムを見返して写真を見る限りでは、かなり幼少の頃なのだろうけれど、あまり覚えていない。父が中学時代にサッカー部だったので、実家には常にサッカーボールがあった。小学校四年生の時に、初めて買ってもらった自分用のサッカーボールは、今一人暮らしをしている家にも置いてある。散々フェンスに向かって打ち付けたので、表面はボロボロになってしまっているけれど、古くからの大切な友達だ。

「ねえ!Y君って試合出てるの?」

高校二年の時のオープンキャンパスで、帰り道に聞かれた言葉だった。

「ああ、出てるよ。FWだから、点取り屋だね。」

「そうなんだ!今度、試合見に行こうかなあ。」

Y君は僕ではない。チームで一番仲が良かった友達。フィジカルが強く、背が高くて、プロに例えるならば、元スウェーデン代表のイブラヒモビッチみたいなプレースタイルをする選手だった。僕と真逆のタイプだ。

「来ればいいじゃん。今度近いうちにある試合の日程送るよ。」

「本当?ありがとう!楽しみだなあ。」

そう言って彼女は微笑んだ。

本当は、Y君の事など応援して欲しくもなかった。スタンドから、僕に向けて声援を送って欲しかった。二人で一緒に行こうと、勇気を出して彼女を誘ったオープンキャンパス。僕は彼女のことが好きで、彼女はY君のことが好きだった。どこにぶつける当てもない複雑な気持ちは、帰りの路面電車に淡々と揺られた。

一週間はあっという間だった。けれど、思いの外に悩むことはなかった。僕は絵が描きたい。ただそれだけしか頭の中になかった。誰と相談したということもない。チームメイトたちのそれぞれの意見も全く聞いていなかった。

体育教官室の扉をノックして入り、顧問にこれからの事を全て伝えた。デザインの勉強がしたい事。そのためにはデッサンがしたい事。僕の話を一通り聞いた顧問は、否定もしなかったし、引き止めもしなかった。ただ「頑張れよ」と力無く一言だけ呟いた。

他のチームメイトたちがどういう道を選んだのか知らない。ただ、僕の選んだ道はこれしかなかった。

事態が動いたのは、体育教官室を出てから更に一週間が経過した日の朝だった。いつも通り布団から出るのが嫌で、まごつきながら携帯をいじっていた。定期テストがあること以外を除けば、ごく普通のいつも通りの朝だけれど、その日は違った。年明けでもないのにLINEの通知が無数に来ている。ツイッターも何やら騒がしい。「高校教諭」「逮捕」などという何やら不穏な文字が飛び交っている。初めは夢かと思ったけれど、それはすぐに現実だとわかった。同じ高校に通う妹が下の階で直ぐに降りてこいと言う。妹がZIPをつけて見ていたニュースにハッキリと名前が映し出されていた。「某県高校教諭〇〇、逮捕」。僕の顧問の名前だった。

登校した日の朝、早々に全校集会があり、僕の顧問が逮捕された旨を改めて生徒たちが知った。ざわつく体育館。偶然隣に座っていたマネージャーは、まだ事態を飲み込みきれていない様子だった。

集会の後、サッカー部の生徒たちが会議室に集められ、もしも記者に何かを聞かれても、口を割らないこと。メンタルケアはいつでも引き受けること。その他諸々を散々口酸っぱく言われたけれど、六割も内容は覚えていない。ただ、ハッキリと言えるのは、顧問は事件を起こすような人ではなかったこと。交通事故などの偶発性のある事件ならまだしも、今回はそうではない。何か彼を追い込むような特別な理由があったのだろう。思い当たる節は一つしかなかった。

帰宅して2チャンネルのスレッドやツイッターをたくさん見た。何も知らない不特定多数の人たちが、好き放題に事件のことを書いているのを見て、憎しみが溢れた。会議室から出て、昼休みにY君と話し確認したことを思い出した。どの事実を辿っても、顧問を精神的に追い込んでしまったのは自分たちなのだ。三年生は誰も選手権に向けて残らなかったらしい。三年間、顧問と信頼を築きながら皆でひとつのチームを作ってきた。ただ、最後にお互いが胸を張って、信頼し合ったまま終われなかった。誰も悪くない。100%どちらかがが悪いと言う話でもない。それでも、自分たちを責めずには居られなかった。きっと、誰もが勝者で終わる世界など存在しない。ただ、この結末は誰も望んでいなかった。部屋の電気がいつにも増して薄暗かった。事件のあの日、部活の練習はどうなったんだろうか。布団の中でそんなことも考えた。九年間、ただ並大抵の何処にでもいる平凡だった選手が、この日だけは違った。

教育実習を辞退する書類の手続きを済ませた。あとは母校からの連絡を待つだけだ。パソコンから何気なくユーチューブを開くと、今年の選手権の決勝戦の動画が出てきた。サムネイルには今にも弾けそうなほど人でいっぱいの観客席と、満身創痍の選手たちが映っていた。けれど、再生はせずにタブを閉じた。引退して数年が経過したにも関わらず、自分より才能と努力で駆け上がった若さを、昔の自分と比べてしまって、見る勇気など到底ない。代表戦は楽しんで見れるが、もう自分よりも年下の選手が世界で活躍している。

顧問の先生はもう出所したらしく、田舎にある何処かの工場で働いていると聞いた。あの日の体育教官室以来、一度も会っていないから、地元ですれ違っても気がつかないだろう。

タバコを吸うためにベランダへ出た。いつも家の前を歩いている、ひとりぼっちの野良犬と、道路越しに目が合った。

「どう?そろそろ友達はできたかい。」

そう何気無く話しかけてみたけれど、野良犬はそっぽを向いて走り去っていった。「いらないよ、そんなもの。」とでも言っているようだった。

今年の冬は少しだけ春の匂いがする。