シティボーイは泣かない。

古い引き出しの奥に、ずっとしまわれていた手紙のような話。

三月(2)

3年前の春のこと。3月1日卒業式。僕は絶対に泣くまいと心に誓っていたのに、いざ教壇に立つと、感情の蓋は簡単に外れてしまった。動悸が激しくなり、涙が目から次々とこぼれ落ちた。その時の僕はみんなとは違って、まだ進路が決まっていなかった。

特別、絵に描いたような青春に溢れた高校生活ではなかった。かといって暗い思い出が多かったわけでもない。楽しい思い出もそれ相応にあった。充実していたかと聞かれれば返答に少し困る程度。本当にごくごく普通の高校時代だった。

高校受験を無事に第一志望合格で終えた僕は、家から自転車で40分程の県立高校に進学した。少し遠いけれど、周りは田畑と山々に囲まれていて、有名映画のロケ地としても使われたくらいの情緒あふれる高校だった。同じ中学から進学した生徒は10人程。そのうちの1人は小学校時代からの仲で、よく高校から部活を終えての帰り道を共にした。

部活は中学と同じサッカー部に入った。それなりの努力をしつつも、あまり良い結果は出せなかったが、3年間最後まで選手として戦い続けた。よく進学校で掲げられるスローガン、「文武両道」も忠実にこなした。入学時は学内で320人中150位程の成績だったものを、3年生の後半では3位にまで昇進させた。県内模試では国語で30位に入ったこともあった。結局、卒業するまで何かで1位になることはできなかったが、自分の中ではベストを尽くしたので後悔はしていない。

3年生になって、進路決定の時期が来た時、僕は美大への進学を決めた。小さい頃から絵を描くのが好きで、絵を描いて欲しいと人から頼まれたりしたことも幾度となくあったので、美術関係への進学は少しだけ頭の片隅にあった。初めは専門学校に行くつもりだったが、担任の先生や美術の先生の計らいのおかげで、今の大学を志すことができた。放課後に美術室でデッサンを教えてくれること。できるだけ家計の事情にあった良い大学を紹介すること。何から何まで至れり尽くせりだった。3年生の5月にサッカー部を引退し、先の変に尖った鉛筆を手にした。放課後の補修を特別に抜け出して、美術室でモチーフに向き合った。それでも、普通科進学校となれば美術関係に進む生徒の割合は少ない。凄いねと真摯に受け止めてくれる友達もいれば、絵なんか描いてどうするのと嘲笑気味な視線を向けてくる人たちもいた。それなりに傷ついたし悲しかった。自分自身を否定されたことというよりは、自分の大好きな芸術という文化そのものが軽んじて見られた気がして悔しかった。

一方で、その当時の僕は作品という作品も制作したことがなく、絵画を見ること以外は、美術に関して全くの素人だった。鉛筆の削り方も知らなければ、イーゼルの立て方も知らない。もともと才能があったとはいえ、最初のデッサンは目も当てられないくらい酷いものだった。線はぐにゃぐにゃと曲がっていたし、陰影のメリハリもなかった。ただ、不思議なことに心は折れなかった。

美術室の南側が全面窓ガラスになっていて、自転車置き場が見えた。そこから後輩や同級生がまじまじと見つめてくることもあったし、仲の良い友達が話しかけてくることもあった。少しだけそれが救いになっていたこともある一方で、好きな女の子が仲の良い友達と二人で帰っているのを見たこともあった。

美大に進むと決めた後に、Nに一度だけこう聞かれたことがあった。

「お前、絵なんか描いてこの先どうするの?」

少し心配の意味を含めて、それでいて嘲笑気味にNはそう言ったと思う。その時の僕は、適当にデザイナーになりたいだとか、絵を描くことが好きだからとかで適当に返事をしたと思う。お互いテスト期間になると必ず通っていた中華料理屋さん。学生に優しい値段で大盛りの料理が運ばれてくる。僕は必ずチャーハン定食で、Nはホイコウロウ定食を頼んでいた。そこで単語帳を広げては、テスト範囲の確認や、部活や進路の愚痴を言い合うことが、テスト期間のお決まりの過ごし方だった。

Nとは中学も部活も違ったし、一度も同じクラスになることはなかったが、何故か気が合った。彼は相当に頭がキレるタイプで、学内の成績も常に上位だったし、高校の教科書に載っていない知識も豊富に持っていた。いわゆる雑学というやつ。それでいて、社会の流れを学校の誰よりも明瞭に理解しているし、SNSも一切やらない。専ら、本で得た知識だったのだろう。僕はそういった知識を彼から聞くことが何よりも好きだったし、彼は僕の知らない世界のことを沢山知っていた。ただ、少しばかり彼には無知なことを恥だと思う傲慢な部分があり、他者に押し付ける癖もあった。加えて、特定のグループにも依存しないので、その分だけ敵も多かった。別段、彼自身は何も気に留めていない様子だったのだが。

卒業してから彼とは一度だけ会う機会があった。特にドラマチックさを演出しようとしたわけではなかったのだが、待ち合わせの場所は例の中華料理屋さんだった。2年ぶりくらいにあった彼は、学生時代のさっぱりとした髪型がまるで変わっていて、某有名ロックバンドのボーカルの髪型を額でぐっと分けたようになっていた。その髪型を僕は多少いじったりしながら、以前と同じようにチャーハン定食とホイコウロウ定食を注文した。当時と変わっていなかったのはそのことくらいで、髪型と話題は互いの空白の時間を埋め合わせるように変化していた。

互いに料理を食べ終えたところで、昔のあの質問の真意を彼が教えてくれた。

「お前程の頭の良さがあれば、国立とまでは言わないけれど、そこそこの公立大学に引っかかったと思うんだよな。でもまあ、今が楽しそうで本当に良かった。」

僕はその言葉を聞いた時、当時の僕が彼に認められていたことを理解し、少しだけ嬉しかった。同時に、今の僕を素直に応援してくれていることにも。

Nとはそれ以来会っていない。おまけに連絡も一切取っていない。おそらく、互いに干渉し合わなくても、いつかまた会えると思っている。その頃にはまた小さな何かが変わっていることだろう。あと1年後か10年後か。

美大の受験は実に過酷なものだった。朝6時に起きて学校まで自転車で向かい、クラスの誰よりも先に教室に入ってセンター試験の勉強をする。半ば過去の範囲を反復するばかりの授業を終えたら美術室へ急いで向かい、鉛筆を握り占めて夜遅くまでデッサンをする。それから家に帰ってセンター試験とスケッチの勉強をする。美術の課題(平面構成や静物デッサンが主だった)をもらった時は、夜中の3時頃まで課題に向き合う。そして朝6時には再び起床。日曜日は学校が開かないので、近所の図書館やTUTAYAの勉強スペースでセンター試験の対策をし、夜には先生の知り合いのアトリエを借りて、3時間ほどデッサンをした。何が僕の背中を押し続け、駆り立てているのか、自分でもよく分からなかったが、ただひたすら前進と後退を繰り返しながら、少しずつ前に進んだ。

センター試験の勉強は全て自分で片付けた。夏季補習が始まる頃には、授業で教わる内容のほとんどが退屈で仕方がなかった。古文はひとつひとつ復習していくことに対し、効率の悪さを感じたので、公立図書館で借りた源氏物語の重要な部分を全て自分で訳し、勉強した。度々補習を抜け出しては、ひとりで港に行って、小論文と現代文の対策にひたすら本を読んだ。

ある日の帰り道、いつものように通る大きな橋に差し掛かった時、地平線の向こう側に空港の灯りが見えた。あたりはすっかり暗くなっていて、橋の脇を通る国道には帰宅途中の車たちが列を成していた。自転車を止め、橋の欄干に寄りかかり、空港に離着陸する飛行機を眺めた。その時、突然自分の中でずっと押し殺していた何かが破裂した。大粒の涙が目から零れ落ちた。声をあげて泣いた。一体、僕は何と戦っているのか分からなくなった。

受験前、最後の三者面談で滑り止めは受けないことを、先生と母親に伝えた。僕は浪人をする覚悟でいた。もしも受験に落ちて浪人が決まったら、東京の美大を受けるつもりでいた。親や先生は猛反対した。それでも、僕は半ば強引に自分の進路を押し通した。

それから数ヶ月がして、前期日程の試験が行われた。オープンキャンパス以来、約半年ぶりに自分の志望する大学の門を潜った。試験の出来は自分でもまあそこそこで、緊張して失敗することもなく、冷静に課題を熟すことができた。試験が終わってから帰りまで少し時間があったので、港のあたりを少しだけ散策した。初めて街の商店街を歩いた時、僕は何故かこの街のことを昔から知っているような気がした。冷たい海風がマフラーの隙間から肌に触れる。潮の香りが遠くの水平線から長旅をしてくる。港のベンチに腰掛け、僕は自動販売機で買った缶コーヒーの蓋を開けた。

卒業式が終わって、僕はすぐにアトリエへ向かった。美術室は三年生の美術部員を送り出す会で終日使えないため、自転車の前の籠に課題と道具、卒業証書を押し込んで急いで向かった。卒業アルバムの寄せ書きの欄は、驚く程に空虚だった。マジックペンを片手に走り回る同級生たちを横目に、僕は足早に廊下を歩いた。胸の花飾りはとっくに外していた。自転車置き場でボタンからネクタイから何まで、後輩たちに持って行かれた同級生も見た。彼のことは一年生の頃から知っていたし、たまに話すくらいではあったけれど、特別仲がいいというわけでもなかった。他の同級生たちに茶化される彼を視界の隅に追いやり、僕は自転車の鍵を外してスタンドを上げた。さようならは誰にも言わなかった。

それから2週間くらいして入試の合否が公開された。恐る恐る受験生用サイトを開く。結果は合格。自分の受験番号と同じ数字が画面に映し出された時の僕は、今にも跳ね上がりたいくらい心の底から喜んだ。そして、卒業式の日と同じようなエメラルドグリーンに近いような青空の日の午前。僕の受験戦争はあっさりと終わった。

それから1ヶ月の間は引越しの荷造りに追われたり、地元の友達との別れを惜しむために遊んだりした。少し背伸びがしたくて、美容院へ行って髪を染めたりもした。一方で絵を描くことは辞めなかった。僕はデッサンを半年ほどしかしていなかったので、大学に入って自分の能力が著しく欠如しているだろうということは、入学以前から目に見えていた。ただ、少しだけ変化はあった。当たり前の話だが、やや肩の力を抜いてモチーフと向き合うことができた。

去年の春。僕の母校、すなわち普通科ばかりだった高校に芸術科ができたと聞いた。自分が学校に対して、特別に何かを残したわけではないと思っていた。それでも、僕が卒業して美術の道に進んだことが少なからず芸術科設立の拍車にはなっていると聞いた。正直、心から嬉しかった。僕自身の努力を褒め讃えたいわけではなく、これから僕と同じ道を進むであろう後輩たちが、より一層真剣に戦える環境ができたこと、それ自体がとても嬉しかった。

あの卒業式の日に流れた涙の真相は今でも分からない。もちろん、両親や担任の先生への感謝の気持ちもあった。一方で何故か少しだけ後ろ髪を引かれているような気もした。今日この日がずっと続いて欲しいと思ったわけではない。ドラマチックにカッコをつけたかったわけでもない。次にNと会う頃には答えが出ているだろうか。そういえば、Nは卒業式の日に泣いたのだろうか。聞いていなかったことを今思い出した。

結局、地元を離れる時に最後に誰と会ったのかは覚えていない。ただ大学に進学するというだけなので、少し大げさだと思われるかもしれない。けれど、18の頃の僕はもうこの街に戻ることはないと思っていて、それは今でもずっと変わらない。帰省の度に街を歩くと、中心部のアーケード街で度々かつての同級生とすれ違う。ただ、僕が気づいても、向こうは僕に気づいたりしない。きっとあの日以来、僕は過去の人間になってしまって、地元にはもういない。他人の記憶の中だけで、18歳の頃の変に尖った鉛筆を握りしめた僕が生きている。

 

三月(終)