シティボーイは泣かない。

古い引き出しの奥に、ずっとしまわれていた手紙のような話。

エンドロールが終わる頃には。

教育実習に行くことを辞めた。まだ辞退の書類を全て送り出していないので、正式には辞めたことにはなっていないが、今後の見通しや自分のキャパシティを考えた結果、最終的な判断は自分で決めた。

ある日突然、荷物が軽くなった。同時に、頂上の景色を拝まずに下山することになった。ただ、あの山の頂から見える景色が、今後の自分の将来に大きく影響しないことは、六合目半ばで少しばかり気づいていた。

教育実習担当の先生に辞退の意志を告げた帰り道、大学の正門を出てすぐの自動販売機でミルクティーを買った。130円。自動販売機のディスプレイの端で、冬を越せなかった足の長い蜘蛛が、くしゃくしゃの紙切れのようになって死んでいた。

何かを途中で辞めたのはこれが初めてだった。最後まで耐えられなかった自分を、友人たちは罵るだろうか。それとも嗤うだろうか。頭の中で聞きたくもない言葉が、ぐるぐると駆け巡った。とても惨めな気持ちがした。ただ、それと同時に自分のやりたいことに向かって、持て余す時間とお金の全てを賭けられるという事実、悪く言えば博打なのだが、それが嬉しくも感じた。

物事の終わりは実に単純で、大抵が予期せぬタイミングで訪れる。そして、今までの夢や努力がまるで一枚の布切れだったかのように、残酷に呆気なく破れて消える。

4年前の春、小学生の頃から続けていたサッカーを引退した。9年間の努力は、まるで映画のようにドラマに満ち溢れていたのだが、エンドロールは物語中盤で呆気なく流れ始め、エンドロールが終わる頃には、客席には誰も残っていなかった。まだ物語はこれからも続くはずだった。三年生最後の地区予選の一回戦を難なく制し、準決勝まで上り詰め、県大会への切符を手にいれる。まだ成し遂げていない事が山というほど残っていた。それでも結果は一回戦負け。スコアは0-3。勝てるはずの試合だった。芝生を手で鷲掴みにして泣いた。チームメイトに抱えられながら、客席に最後のお礼を言い、ピッチを去った。

客席への挨拶を終えピッチの外へ出て、ベンチに戻った。悔しそうに涙を流しながら天を仰ぐ者。芝生の上にうずくまる者。ただその場で呆然としている者。それぞれがサッカーに賭けた青春の重さを痛感した。

最後のミーティング。悔しさと焦燥で、誰もが顔を上げる事ができなかった。ロッカールームでもない、ただひたすらに日差しが照りつけるアスファルトの上に、全員が体育座りをして、隣のブロックの試合を横目に俯いていた。

「お前たち、これが最後でもいいのか。まだ戦えるんじゃないのか。なんでこの程度で泣いているんだ。」

不意に顧問から発せられた言葉に耳を疑った。結果を出せなかった僕たちに対しての悔しさと怒り、それから夏の選手権まで戦えという意味が籠められていた。おそらく、あの場にいた誰もの心に刺さっただろう。ここで終わるはずではないと思っていたのは誰もが百も承知だ。ただ、誰も夏の選手権まで残ることは考えていなかったに違いない。春の総体で結果を残して、後腐れなくピッチを去り、受験を迎える。例え栄冠に満ちた最後を迎えられなかったとしても、この大会が最後。悔しい結果に終わったとしても、それを次に活かして新しい人生に向けて再出発する。きっと、誰もがそう思っていただろう。少なくとも、僕はそう決めていた。引退してからの進路は、美術系の大学を受験する事が決まっていたので、夏の選手権終わりから準備をするのは些か無理あったからだ。

ミーティングが終わり、後輩たちが帰ってから、三年生だけ顧問の元へ集められた。

「いいか。一週間だけ時間をやる。じっくり考えてこい。答えが出たら、俺のところへ来い。まだ戦えるかどうかの意思表示をしろ。いいな。一週間だ。」

顧問はそう言った。非常勤講師で僕たちと同じ年にこの高校へ配属され、一年目からサッカー部を任されていた先生。つまり、三年間僕たちと共に、このチームを作り上げてきたのだ。教科は保健体育。高校時代は全国大会でキャプテンマークをつけ、国体の選手にも選ばれたような、殿上人だった。

一週間。長いようで短い。帰り道は誰もが口を閉ざしていた。恐らく、それぞれが様々なことを頭の中で反芻していたに違いない。僕たちはこのままどこへ向かうのだろうか。夕日が沈む海岸線を、ただひたすらに送迎の車は走る。まだ夏には程遠い。春の名残を残した海岸を、カップルたちがじゃれ合いながら歩いていた。

決して才能に恵まれた特別な選手などではなかった。利き足が左だったことと、足が速かったこと、負けず嫌いなところ。それらを含めても、本当にどこにでもいる平凡な選手だった。練習はサボらずに毎日参加した。居残りをして自主練習をしたこともあった。それ相応に褒められ、叱られた。チームの期待に応えた試合もあれば、お荷物扱いされてベンチに座ることしかできなかった試合もある。本当に、誰もが運動部として戦っていれば、経験したことのある平凡さだ。好きな女の子のスタンドからの声援など聞いた事がない。試合を見にくるのは決まって、両親だった。ただ、一度だけ祖母が僕の試合を見にきた事があったと思う。あの時、祖母をあっと驚かせるような活躍ができたかは覚えていないが、僕は生まれてから病気を患っていたので、あの病気が嘘だったかのように走り回る僕を見て、祖母は涙が止まらなかったらしい。その祖母は、数年前に他界してしまった。病気を患い生死の境を彷徨った僕が、結果として祖母より長生きしているのだけれど、きっと祖母はそれを願っていただろうから、おばあちゃん孝行にはなっているのかもしれない。

初めてサッカーボールに触れたのはいつだっただろうか。古いアルバムを見返して写真を見る限りでは、かなり幼少の頃なのだろうけれど、あまり覚えていない。父が中学時代にサッカー部だったので、実家には常にサッカーボールがあった。小学校四年生の時に、初めて買ってもらった自分用のサッカーボールは、今一人暮らしをしている家にも置いてある。散々フェンスに向かって打ち付けたので、表面はボロボロになってしまっているけれど、古くからの大切な友達だ。

「ねえ!Y君って試合出てるの?」

高校二年の時のオープンキャンパスで、帰り道に聞かれた言葉だった。

「ああ、出てるよ。FWだから、点取り屋だね。」

「そうなんだ!今度、試合見に行こうかなあ。」

Y君は僕ではない。チームで一番仲が良かった友達。フィジカルが強く、背が高くて、プロに例えるならば、元スウェーデン代表のイブラヒモビッチみたいなプレースタイルをする選手だった。僕と真逆のタイプだ。

「来ればいいじゃん。今度近いうちにある試合の日程送るよ。」

「本当?ありがとう!楽しみだなあ。」

そう言って彼女は微笑んだ。

本当は、Y君の事など応援して欲しくもなかった。スタンドから、僕に向けて声援を送って欲しかった。二人で一緒に行こうと、勇気を出して彼女を誘ったオープンキャンパス。僕は彼女のことが好きで、彼女はY君のことが好きだった。どこにぶつける当てもない複雑な気持ちは、帰りの路面電車に淡々と揺られた。

一週間はあっという間だった。けれど、思いの外に悩むことはなかった。僕は絵が描きたい。ただそれだけしか頭の中になかった。誰と相談したということもない。チームメイトたちのそれぞれの意見も全く聞いていなかった。

体育教官室の扉をノックして入り、顧問にこれからの事を全て伝えた。デザインの勉強がしたい事。そのためにはデッサンがしたい事。僕の話を一通り聞いた顧問は、否定もしなかったし、引き止めもしなかった。ただ「頑張れよ」と力無く一言だけ呟いた。

他のチームメイトたちがどういう道を選んだのか知らない。ただ、僕の選んだ道はこれしかなかった。

事態が動いたのは、体育教官室を出てから更に一週間が経過した日の朝だった。いつも通り布団から出るのが嫌で、まごつきながら携帯をいじっていた。定期テストがあること以外を除けば、ごく普通のいつも通りの朝だけれど、その日は違った。年明けでもないのにLINEの通知が無数に来ている。ツイッターも何やら騒がしい。「高校教諭」「逮捕」などという何やら不穏な文字が飛び交っている。初めは夢かと思ったけれど、それはすぐに現実だとわかった。同じ高校に通う妹が下の階で直ぐに降りてこいと言う。妹がZIPをつけて見ていたニュースにハッキリと名前が映し出されていた。「某県高校教諭〇〇、逮捕」。僕の顧問の名前だった。

登校した日の朝、早々に全校集会があり、僕の顧問が逮捕された旨を改めて生徒たちが知った。ざわつく体育館。偶然隣に座っていたマネージャーは、まだ事態を飲み込みきれていない様子だった。

集会の後、サッカー部の生徒たちが会議室に集められ、もしも記者に何かを聞かれても、口を割らないこと。メンタルケアはいつでも引き受けること。その他諸々を散々口酸っぱく言われたけれど、六割も内容は覚えていない。ただ、ハッキリと言えるのは、顧問は事件を起こすような人ではなかったこと。交通事故などの偶発性のある事件ならまだしも、今回はそうではない。何か彼を追い込むような特別な理由があったのだろう。思い当たる節は一つしかなかった。

帰宅して2チャンネルのスレッドやツイッターをたくさん見た。何も知らない不特定多数の人たちが、好き放題に事件のことを書いているのを見て、憎しみが溢れた。会議室から出て、昼休みにY君と話し確認したことを思い出した。どの事実を辿っても、顧問を精神的に追い込んでしまったのは自分たちなのだ。三年生は誰も選手権に向けて残らなかったらしい。三年間、顧問と信頼を築きながら皆でひとつのチームを作ってきた。ただ、最後にお互いが胸を張って、信頼し合ったまま終われなかった。誰も悪くない。100%どちらかがが悪いと言う話でもない。それでも、自分たちを責めずには居られなかった。きっと、誰もが勝者で終わる世界など存在しない。ただ、この結末は誰も望んでいなかった。部屋の電気がいつにも増して薄暗かった。事件のあの日、部活の練習はどうなったんだろうか。布団の中でそんなことも考えた。九年間、ただ並大抵の何処にでもいる平凡だった選手が、この日だけは違った。

教育実習を辞退する書類の手続きを済ませた。あとは母校からの連絡を待つだけだ。パソコンから何気なくユーチューブを開くと、今年の選手権の決勝戦の動画が出てきた。サムネイルには今にも弾けそうなほど人でいっぱいの観客席と、満身創痍の選手たちが映っていた。けれど、再生はせずにタブを閉じた。引退して数年が経過したにも関わらず、自分より才能と努力で駆け上がった若さを、昔の自分と比べてしまって、見る勇気など到底ない。代表戦は楽しんで見れるが、もう自分よりも年下の選手が世界で活躍している。

顧問の先生はもう出所したらしく、田舎にある何処かの工場で働いていると聞いた。あの日の体育教官室以来、一度も会っていないから、地元ですれ違っても気がつかないだろう。

タバコを吸うためにベランダへ出た。いつも家の前を歩いている、ひとりぼっちの野良犬と、道路越しに目が合った。

「どう?そろそろ友達はできたかい。」

そう何気無く話しかけてみたけれど、野良犬はそっぽを向いて走り去っていった。「いらないよ、そんなもの。」とでも言っているようだった。

今年の冬は少しだけ春の匂いがする。

蜉蝣(2)

 今日がまだ終わらなかったので、ふたつめの日記をつけた。何故終わらなかったのか。夜勤のアルバイトがあったから。これさえ終われば、とりあえず地元で少しだけ羽を伸ばせる。3日くらい。いや、2日だったかもしれない。バイト前にお腹が空いて、昨日作ったスルメイカと鶏胸肉の甘辛煮を食べた。口の中が塩辛さで満たされて、缶ビールも1本空けた。バイト先まで1時間半はあるから、それまでに酔いは覚める。昨日、少しだけ安かったからといって買ったスルメイカ。丸々一匹買ったスルメイカ。ちょっとした贅沢のつもりで買ったのに、たった24時間足らずで消えてしまった。なんだか物足りなくて、業務用チーズを二枚重ねにしたトーストを焼いた。ベランダで食べた。昼間の月は青い。太陽はとうの昔に死んでいた。洗濯物が春風に乗って飛んでいきそうだったから、急いで部屋の中に仕舞った。リーバイスジーンズの膝が少しだけ擦れていた。両耳にイヤホンをつけた途端、ジッーっという電子音が鼓膜を通じて鳴り響いた。ジッーって。昆虫の鳴き声のようだった。午前中に見た蜉蝣のことを思い出した。彼は今夜の月が消えてしまう頃には死ぬ。僕の他に誰か彼に会った人はいるのだろうか。あの砂浜に埋めた秘密の中に、彼もそっと隠した。バイトに行く途中、駅前でベトナム人が大きめのずだ袋を抱えていた。ずだ袋の口からは溢れんばかりの緑色の植物が顔を出していた。その光景をじっと眺めていると、実家からLINEが来た。煩わしくなって適当に返信し、アプリを閉じる。それから閑散としたバス停で、賞味期限切れのお茶を飲み干した。Tumblrを開いて読む。ずっと応援していたブロガーさんが作家になっていた。彼女の夢が叶った。いつか直木賞を取ると意気込んでいる。もしも、彼女が小説を出したら、真っ先に買いたい。月はいつの間にかこの街から消えていた。昼間の蜉蝣が死んだ。

蜉蝣

今日はずっと追っかけている作家さんの画集を買いに行くために、いつもより早起きをした。出発の時間の1時間前に起きて、やかんに火をかけ、ベランダの手摺にもたれかかって煙草を吸った。ピッーっとお湯の沸いた音が、窓の隙間から春風に乗って隣街まで飛んでいった。紅茶を沸かして、昨日の夜に焼いたホットケーキを食べた。まだ夜の味が少しだけ残っていた。さあ、今から出かけるぞって時に限って、お日様が消えた。小雨が降り出した。急いでバス停まで走った。傘は持たない。きっと直ぐに止む。余計な手荷物は少ない方がいい。バスの中でも部屋の中でもひとりだった。車窓の景色と、イヤホンから流れる尾崎豊がそぐわない。一日がこれから始まるっていうのに、もうすぐ終わってしまうような気がする。昨日の夜は履歴書を書き直した。エントリーシートを2枚ほどインターネットで提出した。文字で埋め尽くされた、たった1枚の紙切れで、自分の過去が全て完結した。たった200文字たらずの文章で、自分のことを全て語ってしまった。たったそれだけと1枚の顔写真で、自分の説明書ができてしまった。バスはひとりの人間のために終点まで向かう。雨が止んだ。過去から持ってきたようなバイクを荷台に載せた、1台の白い軽トラとすれ違った。車窓に1匹の蜉蝣が止まった。まだ今日が始まっていないのに、僕は日記をつけた。

黒猫

「ずっと昔から一緒にいたみたいだね」

横を並んで歩きながら、静かに呟いた。少し雨に濡れた石畳の階段を歩く。水たまりに浮かんだ桜の花びらを、靴のつま先で触れながら、ゆっくり進む。

海辺の寂れた商店街を見下ろせるお寺の境内、赤い首輪をつけた黒猫が昼寝をしていた午後三時。お気に入りのパン屋さん、「パン屋航路」は相変わらず売り切れている。遠くで船の汽笛が聞こえた。

「今は理解できなくてもね、10年経てば理解できてしまうことがあるんだよ。その頃には遅すぎるんだけどね」

貨物列車が海辺の小さな街を通り抜ける。神戸とか横浜に目がけて。

赤い首輪をつけた黒猫はまだ寝ている。黒猫は、手を伸ばせばいつでも触れられる距離にいるのだけれど、彼(彼女)が何者で、どこからきたのかは知ることができない。互いにどれだけ近くにいても、個体は個体なのだ。

「どれだけ互いに分かり合えなかったとしても、突然に別れを告げられるのが一番悲しい」

巨大兵器みたく、貨物列車が今度は博多の方へと消えていく。何度見ても明確な行き先やコンテナの中身すらもわからない。

少し長すぎる昼寝から目覚めたらしく、鈴の音とともに赤い首輪の黒猫はどこかへ行ってしまった。

 

April.20.2017 Tumblrより

普通

  障がい者雇用施設での宿直のアルバイトを始めて半年が経った。

 半年前は塾講師をしていたのだが、急にシフトの連絡が来なくなり、自然消滅というカタチで契約を破棄することになった。次のアルバイトを探すために市内の求人という求人を漁った。ただ、どの求人を見ても、どの面接を受けても、如何せん自分のような日中は大学生活で忙しい学生を雇ってくれる場所などなかった。金銭的にも余裕がなくなり途方に暮れていた時、友人からの誘いで請け負ったのが今の宿直のアルバイトだった。日給12000円を月10回。月額換算にして12万円。別段、社会福祉や介護職に興味があるわけではなかったが、業務内容はさほど難しくもない。隣町なので通勤に片道1時間半を要する事と、眠れない事を除いては嬉しい話であった。面接も驚くほどあっさりと通った。書類を数枚書き、印鑑をポンと押して契約が成立した。実際にやってみても大して心身的疲労があったわけでもなかった。深夜帯から朝方にかけては見回り以外にすることがない。こうして日記をつける時間もあるし、大学の課題を進める時間も有り余るほどに確保できる。朝方になったら朝食を各部屋へ配膳、食後のバイタルチェックを終えたらタイムカードを押して退勤。講義に向かう。重たい瞼を猫のように擦りながら、真面目に講義を受けた。嘘、少しだけサボったこともある。例え心身的疲労が溜まっても、月頭の給料日が来れば回復した。睡眠時間を削った分に相応の給料が手に入るから。

 施設での利用者さんは3人いる。いつも折り紙に夢中のHさん。新聞を読むのが大好きなMさん。それから素敵な笑顔でいつも冗談を口にする、お調子者のSさん。それから管轄外なのだが、施設の二階に住んでいるDさんとLさん。いずれの方々も自閉症などを抱えた、中年〜初老の男性。施設団体での旅行などの特別なスケジュールがない限りは、ほとんどの方達が決まったタイムテーブルで過ごしている。就寝時間や朝食の時間もキッチリ決まっている。意図的に夜更かしをすることはまずない。

 数ヶ月ほど前、新聞を読むのが大好きなMさんが大阪に旅行へ行った話をしてくれた。施設団体の催しで3日前に行ったという。笑顔で道頓堀の写真を3回くらい見せてくれた。僕は笑顔を絶やさず、他にはどんな場所に行ったのか。何を食べたかなど。朝ごはんの配膳をしながらコミュニケーションを取った。それから味噌汁を机に置いた後、Mさんが不意にまた口を開いた。

「大阪には 昔 お父さんとお母さんと行ったんよ でも お父さんもお母さんも もうおらんけぇ お父さんもお母さんも おらんなってしもうとるけぇ」

するりと抜け落ちるようにしてMさんの口から出てきた言葉は、ふわふわと宙を舞い、空虚な天井に向かって泡のように消えた。僕は返すべき言葉を見つけられなかった。現代の社会福祉や障がいに対する理解や知識は、日々進歩し続けていると思う。ただ、彼らにとっての無償の愛を提供してくれたのは僕たちではなく、紛れもない父や母であったこと。その全てがMさんの口から発せられた言葉の中に込められていた。その翌日、Mさんの本棚の上にいつも伏せられているはずの写真立てが一枚、ひっそりと起き上がっていた。木のフレームの中にはまだ白髪になる前の若いMさんと、その両脇に笑顔で座る御両親の姿がはっきりと映し出されていた。

 喫煙者も二人ほどいる。ただ、施設の規則上、喫煙は御法度にあたるらしい。健康面を考慮した結果なのか、それともハンディキャップがあるからなのか。何れにしても、何らかの特別な理由があるからだろう。なので、喫煙者の方達は隠れて煙草を吸っている。ベランダの隅の方に灰皿を置いたりして。一応、施設の階段の踊り場に喫煙所はあって、僕はそこを利用しているのだが、明朝になると顔を合わせることが何度かあった。自らが喫煙者なので、特に何を咎めることもしようとは思わなかった。自分がしていることを、他人にダメとは言えない。いつも少しだけ挨拶をして、それからは何も言わないようにしている。

煙草のことが少し気になって、いくらか過去の業務日誌を遡った。彼らが生活するを上で、健康に害をきたすような飲食物も御法度になっているらしいことに気づいた。栄養価の低いカップラーメンやエナジードリンクなど。いくらその時に食べたいと思っても、手に入れられないシステムになっている。ゴミ箱の中に御法度とされる空き容器が見つかれば、注意されていた。おそらく、彼らは深夜に映画を見ながら食べるカップラーメンの味、いわゆる「罪の味」というものを、私たちの何十分の一くらいの確率で過ごしているのだろう。別段、施設の運営方針について疑問を抱いたわけではない。利用者の健康管理をしていくのは運営として当然のことだ。ただ、言いようもない複雑な気持ちが、喉元に熱く迫り上がっていた。

 

 このアルバイトを始めて、個人の中で生じる「普通」という概念について色々と考えるキッカケになった。僕たちが思う「普通」とは、自分自身が柔軟にモノ・コトを進められる状態のことを指すのだろう。何かを食べたい気持ち。誰かを好きになる気持ち。それから、どこか遠くへ行きたいだとか。それ自体を思ったり行動したりすることを、誰からも「悪」と認識されない状態のこと。もちろん、社会的規範や法律に則った上での話。

 半年の間、僅かながらでも利用者さんたちと時間を共有した。彼らは、他人より自分自身のことを少し変わっているとは認識しているかもしれない。ただ、微塵も自分自身にハンディキャップがあるとは思っていない。むしろ、たとえ他者と少し変わっていたとしても、自分たちこそが「普通」なのだと。実際に、僕自身もそう思う。利用者さんたちは障がいを抱えてはいるものの、同じ人間であることには変わりがない。夜中にラーメンが食べたくなる時もある。体に害だと思っていても、酒と煙草に身を委ねたい夜がやってくる。それは、生きていれば当たり前の話で、別段悪いことでもない。誰も咎めることなど、本来であればできない。僕たち、私たちはいずれ老いて死ぬ。体のどこかに不調が生じる。歩けなくなったり、目が見えなくなったりするかもしれない。それまでに、結婚や就職、大切な人の葬式。色々な出来事があるはず。人間として生きているならば、普通のことだ。たとえそれはハンディキャップを抱えた方々でも同じこと。体のどこかが悪いからと言って、彼らから「普通」を削ぎ落とす理由になんか、微塵もならない。ならないのだが、彼らはひとりで生きていくことができない。買い物や公共交通機関などの利用は問題なくこなせる。一方、料理はおろか、食器を綺麗に洗うことができない。洗剤をきちんと使ったはずでも、ご飯粒はいつも茶碗の淵に残っている。でも、本人は「普通」に綺麗に洗えたと思っている。そう、誰かが見守り続けなければ、生きていけない。

 

 Mさんにとって、無償の愛を提供してくれたのが、両親をはじめとする近親の人々だったとするならば、他に誰かいたのだろうか。血は繋がっていなくとも、彼のことを心から愛してくれた人はいたのだろうか。とりとめもなく、そんなことも考えた。僕たちはあくまでも「支援」する立場にある。ただ、半年間このアルバイトを続けたことを振り返ると、少なくとも僕がこの街を去るまでの残り一年、「家族」のような存在で居たいとも考えるようになった。年齢的には孫か息子にあたるかもしれないけれど。いいよね。

ドアノブ

ここ一週間くらいの間は、イベント運営のためにあちらこちらを駆け回っていた。ようやっとの思いで仕事を片付け、水曜日の明け方に隣街の自宅まで帰った。一週間ぶりだ。早く風呂に入って寝てしまいたい。

冷たい鉄製の階段を上り、ドアを開けようとしたのだが、ドアノブがとれてしまっていた。まずい。このままでは家の中に入れない。横には何故か最近仲良くなったばかりの友達がいた。お前の家はこっちじゃないだろう。と思ってはいるものの、今はそれどころではない。ドアノブがないことのほうが問題だ。ドアをノックしても答えはない。そりゃそうか。

試しにドアを思い切り押してみた。意外にもドアはするりと開いた。ドアノブとは一体何のためにあるのか。あまりにも無意味すぎる。

部屋に入ると、ヘッドホンをした髪の長い女がいた。隣の部屋でテレビを前にして座り込んでいる。女はこちらに気づいていない。なるほど。ヘッドホンをしているから、ドアをノックしても気づかないわけだ。どこかで見たことのある後ろ姿なのだが、どこで見たのか思い出せない。

いやまて。自分の家は六畳一間のはずだ。ましてやテレビなどない。ここは自分の家ではない。それなのに知っている家な気がする。匂いも雰囲気も間取りも。どこか懐かしいような、不思議な気持ちだ。髪の長い女はまだ座っている。友達はまだ横にいる。

どうやら帰る家を間違えたらしい。ドアノブがとれていたのは、外部から何者かを入れないためだったのだろう。勝手にずかずか上がりこんで申し訳ないことをしたな。横にいた友達と顔を見合わせて、ドアをそっと閉めた。涙袋が可愛らしくて、色白で綺麗な顔立ちをした子だ。ドアを閉めるときに、スリッパがちらりと見えた。髪の長い女は最後まで振り返らなかった。振り返って欲しくなかった。顔を見てしまえば全ての答えが分かるだろう。

それから、よく知っている緩い坂道を、友達と二人して歩いて帰った。いつもは猫の夫婦がいるはずなのだが、今日はいない。時刻は十一時を過ぎていた。平日なので、テレビをつけると「ノンストップ」が半分くらい終わってしまっている時間だ。しばらく歩くと、友達はいつの間にか家に帰っていた。消えてしまったと言ったほうが正しいのかもしれない。去り際に何かしてしまった気がするのだが、思い出せない。思い出せないことが多すぎるな。きっと疲れているんだ。早く風呂に入って寝よう。

目が覚めたのは昼の十一時を過ぎたあたりだった。「ノンストップ」は半分くらい終わっていた。

 

Mar 16th 2017 tumblr

犬(1)

犬がいる。

駅前から少しばかり歩いたスーパーの前に犬がいる。

薄汚れた犬。犬種は分からない。いつもたった1匹で座り込んでいる。

人が通ると決まってビクビクしている。

初めてその犬に会ったのは、駅前の居酒屋まで恋人を送った帰り道だ。冬の寒空の下、先のスーパーの前にぽつんと座り込んでいた。忠犬ハチ公みたく、誰かを待っていたのだろうか。近くのコンビニで買った中華まんを、ひとりと1匹で半分こした。犬を置いて帰るのは心もとなかったが、バスに乗って家路についた。その夜、恋人はいつも通り帰ってきた。

それからしばらくして、恋人は海外へ留学に行った。期間は1ヶ月。文章にしてしまえば1ヶ月など短く感じてしまうのだが、体感的にはものすごく長い。
恋人がいない間も、スーパーに行くと犬は必ずいた。やはり誰かを待っているのだ。心做しか依然より少し毛並みが綺麗になっていた気がする。

1ヶ月が経った。恋人は帰ってこなかった。最後に見たのは後ろ姿だったし、まともな会話もしていない。正確に言えば帰ってはきている。しかし、元の場所には帰っていない。連絡はつかない。サヨウナラのひと言くらい伝えたかったのだが。

合鍵をポストに入れた帰り道、スーパーにひとり、晩御飯を買いに行った。

犬はまだ誰かを待っていた。

 

 

Mar 18th 2017 tumblr

19時間前は木漏れ日の下、野鳥たちの囀る森の中にいたのに、今は都会のコンクリートジャングルの中にいる。眠らない街、渋谷。夜行バスは有り得ないほどに早朝に目的地へと到着するので、適当に忠犬ハチ公前までメトロに乗って出てきた。携帯をフルまで充電しておこうと近場のマックに入ったのに、肝心のコンセントプラグは見当たらない。地下100席、2階100席。あまりにも多い座席数に多少気圧される。机に突っ伏して寝ている人達が視界の隅にちらつく。深夜まで飲み歩いての朝帰りなのだろうか。それからスーツ姿のサラリーマンが足早に店内を歩く。足早といっても、都会ではこれが普通。ノーマルモードのだろう。

薄いベーコンの挟まったハンバーガーを食べ終えたところで電車が通過した。そういえば先輩は東京に行ったんだっけ。この街ですれ違っても、お互い認識し合えそうにないな。僕達の住んでいる街で若者といえば、大抵が見た事のある顔。もしくは知り合い。友達。

交差点近くで人が集まっているけれど、みんな手元の携帯を眺めているか、それか足下を見ているか。いずれにせよ、誰も空を見ない。禍々しいほどに黒いカラスが頭上を飛び回っている。

本当は全然シティボーイなんかじゃない

自分が都会に住もうと思うなんて、3年前は考えつきもしなかった。どこか遠くの田舎の街で、好きな人と幸せに暮らしていくと思っていた。本当は全然シティボーイなんかじゃない。人口50万人弱の地方中枢都市で生まれて、人口10万人強の田舎の港町に移り住んだ。地下鉄の乗り方も知らなかった。公共交通機関の人の多さには未だに慣れない。ICカードを使って改札を初めて抜けたのは半年前。東京の街を初めてこの目で見たのも、つい4ヶ月ほど前。本当にシティボーイなんかじゃない。もしも、僕が都会に住んだとして。初めの1年は必ず精神的にまいる。それでも、僕はもっと新しいものが見たい。新しいことを知りたい。 

ずっと、何と戦っているのか自問自答してきた。綺麗な言葉を並べて、綺麗な視点を見せつけてきた。一方で、心の中の自分は溢れんばかりの野心を抱えていた。大人になるにつれて、感受性はある程度殺さなければ生きていけない。押し殺そうと必死に隠してきた。泣きたい日もたくさんある。それでも、ずっと自分のプライドと戦っている。

プライドなんてない方が楽だ。運命に流されるままに生きて、つまづいて転んで立ち上がっての繰り返し。僕は、自分のことを特別だなんて微塵も思わない。きっと、君もあの子もあいつも全部一緒。それでも、僕が知っている誰よりも強くなりたい。過去の自分に負けたくない。ダサいキャップを被ってブツブツ言いながらママチャリを押して歩くような年寄りになりたくない。電車の4人用の席で、鞄を横に置いて足を伸ばすような中年にもなりたくない。小学6年生のころに書いた文集。「恥ずかしくない大人になりたい。」

 

明日の朝、僕は新宿にいる。

三月(2)

3年前の春のこと。3月1日卒業式。僕は絶対に泣くまいと心に誓っていたのに、いざ教壇に立つと、感情の蓋は簡単に外れてしまった。動悸が激しくなり、涙が目から次々とこぼれ落ちた。その時の僕はみんなとは違って、まだ進路が決まっていなかった。

特別、絵に描いたような青春に溢れた高校生活ではなかった。かといって暗い思い出が多かったわけでもない。楽しい思い出もそれ相応にあった。充実していたかと聞かれれば返答に少し困る程度。本当にごくごく普通の高校時代だった。

高校受験を無事に第一志望合格で終えた僕は、家から自転車で40分程の県立高校に進学した。少し遠いけれど、周りは田畑と山々に囲まれていて、有名映画のロケ地としても使われたくらいの情緒あふれる高校だった。同じ中学から進学した生徒は10人程。そのうちの1人は小学校時代からの仲で、よく高校から部活を終えての帰り道を共にした。

部活は中学と同じサッカー部に入った。それなりの努力をしつつも、あまり良い結果は出せなかったが、3年間最後まで選手として戦い続けた。よく進学校で掲げられるスローガン、「文武両道」も忠実にこなした。入学時は学内で320人中150位程の成績だったものを、3年生の後半では3位にまで昇進させた。県内模試では国語で30位に入ったこともあった。結局、卒業するまで何かで1位になることはできなかったが、自分の中ではベストを尽くしたので後悔はしていない。

3年生になって、進路決定の時期が来た時、僕は美大への進学を決めた。小さい頃から絵を描くのが好きで、絵を描いて欲しいと人から頼まれたりしたことも幾度となくあったので、美術関係への進学は少しだけ頭の片隅にあった。初めは専門学校に行くつもりだったが、担任の先生や美術の先生の計らいのおかげで、今の大学を志すことができた。放課後に美術室でデッサンを教えてくれること。できるだけ家計の事情にあった良い大学を紹介すること。何から何まで至れり尽くせりだった。3年生の5月にサッカー部を引退し、先の変に尖った鉛筆を手にした。放課後の補修を特別に抜け出して、美術室でモチーフに向き合った。それでも、普通科進学校となれば美術関係に進む生徒の割合は少ない。凄いねと真摯に受け止めてくれる友達もいれば、絵なんか描いてどうするのと嘲笑気味な視線を向けてくる人たちもいた。それなりに傷ついたし悲しかった。自分自身を否定されたことというよりは、自分の大好きな芸術という文化そのものが軽んじて見られた気がして悔しかった。

一方で、その当時の僕は作品という作品も制作したことがなく、絵画を見ること以外は、美術に関して全くの素人だった。鉛筆の削り方も知らなければ、イーゼルの立て方も知らない。もともと才能があったとはいえ、最初のデッサンは目も当てられないくらい酷いものだった。線はぐにゃぐにゃと曲がっていたし、陰影のメリハリもなかった。ただ、不思議なことに心は折れなかった。

美術室の南側が全面窓ガラスになっていて、自転車置き場が見えた。そこから後輩や同級生がまじまじと見つめてくることもあったし、仲の良い友達が話しかけてくることもあった。少しだけそれが救いになっていたこともある一方で、好きな女の子が仲の良い友達と二人で帰っているのを見たこともあった。

美大に進むと決めた後に、Nに一度だけこう聞かれたことがあった。

「お前、絵なんか描いてこの先どうするの?」

少し心配の意味を含めて、それでいて嘲笑気味にNはそう言ったと思う。その時の僕は、適当にデザイナーになりたいだとか、絵を描くことが好きだからとかで適当に返事をしたと思う。お互いテスト期間になると必ず通っていた中華料理屋さん。学生に優しい値段で大盛りの料理が運ばれてくる。僕は必ずチャーハン定食で、Nはホイコウロウ定食を頼んでいた。そこで単語帳を広げては、テスト範囲の確認や、部活や進路の愚痴を言い合うことが、テスト期間のお決まりの過ごし方だった。

Nとは中学も部活も違ったし、一度も同じクラスになることはなかったが、何故か気が合った。彼は相当に頭がキレるタイプで、学内の成績も常に上位だったし、高校の教科書に載っていない知識も豊富に持っていた。いわゆる雑学というやつ。それでいて、社会の流れを学校の誰よりも明瞭に理解しているし、SNSも一切やらない。専ら、本で得た知識だったのだろう。僕はそういった知識を彼から聞くことが何よりも好きだったし、彼は僕の知らない世界のことを沢山知っていた。ただ、少しばかり彼には無知なことを恥だと思う傲慢な部分があり、他者に押し付ける癖もあった。加えて、特定のグループにも依存しないので、その分だけ敵も多かった。別段、彼自身は何も気に留めていない様子だったのだが。

卒業してから彼とは一度だけ会う機会があった。特にドラマチックさを演出しようとしたわけではなかったのだが、待ち合わせの場所は例の中華料理屋さんだった。2年ぶりくらいにあった彼は、学生時代のさっぱりとした髪型がまるで変わっていて、某有名ロックバンドのボーカルの髪型を額でぐっと分けたようになっていた。その髪型を僕は多少いじったりしながら、以前と同じようにチャーハン定食とホイコウロウ定食を注文した。当時と変わっていなかったのはそのことくらいで、髪型と話題は互いの空白の時間を埋め合わせるように変化していた。

互いに料理を食べ終えたところで、昔のあの質問の真意を彼が教えてくれた。

「お前程の頭の良さがあれば、国立とまでは言わないけれど、そこそこの公立大学に引っかかったと思うんだよな。でもまあ、今が楽しそうで本当に良かった。」

僕はその言葉を聞いた時、当時の僕が彼に認められていたことを理解し、少しだけ嬉しかった。同時に、今の僕を素直に応援してくれていることにも。

Nとはそれ以来会っていない。おまけに連絡も一切取っていない。おそらく、互いに干渉し合わなくても、いつかまた会えると思っている。その頃にはまた小さな何かが変わっていることだろう。あと1年後か10年後か。

美大の受験は実に過酷なものだった。朝6時に起きて学校まで自転車で向かい、クラスの誰よりも先に教室に入ってセンター試験の勉強をする。半ば過去の範囲を反復するばかりの授業を終えたら美術室へ急いで向かい、鉛筆を握り占めて夜遅くまでデッサンをする。それから家に帰ってセンター試験とスケッチの勉強をする。美術の課題(平面構成や静物デッサンが主だった)をもらった時は、夜中の3時頃まで課題に向き合う。そして朝6時には再び起床。日曜日は学校が開かないので、近所の図書館やTUTAYAの勉強スペースでセンター試験の対策をし、夜には先生の知り合いのアトリエを借りて、3時間ほどデッサンをした。何が僕の背中を押し続け、駆り立てているのか、自分でもよく分からなかったが、ただひたすら前進と後退を繰り返しながら、少しずつ前に進んだ。

センター試験の勉強は全て自分で片付けた。夏季補習が始まる頃には、授業で教わる内容のほとんどが退屈で仕方がなかった。古文はひとつひとつ復習していくことに対し、効率の悪さを感じたので、公立図書館で借りた源氏物語の重要な部分を全て自分で訳し、勉強した。度々補習を抜け出しては、ひとりで港に行って、小論文と現代文の対策にひたすら本を読んだ。

ある日の帰り道、いつものように通る大きな橋に差し掛かった時、地平線の向こう側に空港の灯りが見えた。あたりはすっかり暗くなっていて、橋の脇を通る国道には帰宅途中の車たちが列を成していた。自転車を止め、橋の欄干に寄りかかり、空港に離着陸する飛行機を眺めた。その時、突然自分の中でずっと押し殺していた何かが破裂した。大粒の涙が目から零れ落ちた。声をあげて泣いた。一体、僕は何と戦っているのか分からなくなった。

受験前、最後の三者面談で滑り止めは受けないことを、先生と母親に伝えた。僕は浪人をする覚悟でいた。もしも受験に落ちて浪人が決まったら、東京の美大を受けるつもりでいた。親や先生は猛反対した。それでも、僕は半ば強引に自分の進路を押し通した。

それから数ヶ月がして、前期日程の試験が行われた。オープンキャンパス以来、約半年ぶりに自分の志望する大学の門を潜った。試験の出来は自分でもまあそこそこで、緊張して失敗することもなく、冷静に課題を熟すことができた。試験が終わってから帰りまで少し時間があったので、港のあたりを少しだけ散策した。初めて街の商店街を歩いた時、僕は何故かこの街のことを昔から知っているような気がした。冷たい海風がマフラーの隙間から肌に触れる。潮の香りが遠くの水平線から長旅をしてくる。港のベンチに腰掛け、僕は自動販売機で買った缶コーヒーの蓋を開けた。

卒業式が終わって、僕はすぐにアトリエへ向かった。美術室は三年生の美術部員を送り出す会で終日使えないため、自転車の前の籠に課題と道具、卒業証書を押し込んで急いで向かった。卒業アルバムの寄せ書きの欄は、驚く程に空虚だった。マジックペンを片手に走り回る同級生たちを横目に、僕は足早に廊下を歩いた。胸の花飾りはとっくに外していた。自転車置き場でボタンからネクタイから何まで、後輩たちに持って行かれた同級生も見た。彼のことは一年生の頃から知っていたし、たまに話すくらいではあったけれど、特別仲がいいというわけでもなかった。他の同級生たちに茶化される彼を視界の隅に追いやり、僕は自転車の鍵を外してスタンドを上げた。さようならは誰にも言わなかった。

それから2週間くらいして入試の合否が公開された。恐る恐る受験生用サイトを開く。結果は合格。自分の受験番号と同じ数字が画面に映し出された時の僕は、今にも跳ね上がりたいくらい心の底から喜んだ。そして、卒業式の日と同じようなエメラルドグリーンに近いような青空の日の午前。僕の受験戦争はあっさりと終わった。

それから1ヶ月の間は引越しの荷造りに追われたり、地元の友達との別れを惜しむために遊んだりした。少し背伸びがしたくて、美容院へ行って髪を染めたりもした。一方で絵を描くことは辞めなかった。僕はデッサンを半年ほどしかしていなかったので、大学に入って自分の能力が著しく欠如しているだろうということは、入学以前から目に見えていた。ただ、少しだけ変化はあった。当たり前の話だが、やや肩の力を抜いてモチーフと向き合うことができた。

去年の春。僕の母校、すなわち普通科ばかりだった高校に芸術科ができたと聞いた。自分が学校に対して、特別に何かを残したわけではないと思っていた。それでも、僕が卒業して美術の道に進んだことが少なからず芸術科設立の拍車にはなっていると聞いた。正直、心から嬉しかった。僕自身の努力を褒め讃えたいわけではなく、これから僕と同じ道を進むであろう後輩たちが、より一層真剣に戦える環境ができたこと、それ自体がとても嬉しかった。

あの卒業式の日に流れた涙の真相は今でも分からない。もちろん、両親や担任の先生への感謝の気持ちもあった。一方で何故か少しだけ後ろ髪を引かれているような気もした。今日この日がずっと続いて欲しいと思ったわけではない。ドラマチックにカッコをつけたかったわけでもない。次にNと会う頃には答えが出ているだろうか。そういえば、Nは卒業式の日に泣いたのだろうか。聞いていなかったことを今思い出した。

結局、地元を離れる時に最後に誰と会ったのかは覚えていない。ただ大学に進学するというだけなので、少し大げさだと思われるかもしれない。けれど、18の頃の僕はもうこの街に戻ることはないと思っていて、それは今でもずっと変わらない。帰省の度に街を歩くと、中心部のアーケード街で度々かつての同級生とすれ違う。ただ、僕が気づいても、向こうは僕に気づいたりしない。きっとあの日以来、僕は過去の人間になってしまって、地元にはもういない。他人の記憶の中だけで、18歳の頃の変に尖った鉛筆を握りしめた僕が生きている。

 

三月(終)

三月(1)

 僕は黄色い電車に揺られながら、芝生の上に露店を出してヨーロッパ雑貨を販売する、隣街の蚤の市に向かっていた。長期休暇に入ると、僕はほとんど人と会わなくなる。といっても、ここまで人と会わないのは大学一年生の夏休み以来だ。一年生の冬には恋人がいて、その次の夏には別の恋人がいた。それからまた冬に別の恋人ができて、次の夏を一緒に過ごした。約3年の間、常に誰かと「ふたり」だった。久しぶりの誰もいない長期休暇は空虚でありつつも、自分の将来のことについて真摯に考えるのに十分な時間を要してくれるので、些か好都合でもあった。池のほとりにある小さなコテージのラブホテルを過ぎると、遠くにSF映画に出てくる月面基地さながらの工場が見えた。白煙を蜃気楼の向こう側へと勢いよく立ち昇らせている。最後に知り合いの顔を見たのは一週間以上も前だ。シェアハウスの住人は全員でグアムへ旅行に行っていたし、大学ではほとんど人を見かけなかった。春休みにもなれば、地方の片隅にあるような大学は些か空虚になる。ただ、もう1ヶ月もすれば新入生の入居が始まるので、引越し業者が忙しなく街を右往左往することだろう。春は出会いと別れの季節。つまりはそういうことだ。

 半刻ほどで最寄り駅に着いた。少し汗ばんだ左手に切符を握りしめて改札に向かう。改札からホームに向けて歩いてくる人たちを、ぎこちない足取りで避けながら歩いていると、淡い紅色に咲いた一輪のチューリップを片手に持った、ひとりの女子高生が佇んでいるのが、向かい側のホームに見えた。襟元に白い線の入ったセーラー服は、やや肌寒さの残る潮風に揺られている。卒業式だったのだろう。その手にしている一輪のチューリップは誰かから貰ったものなのか、それとも誰かに渡すものなのか。何れにせよ、あのチューリップが彼女の手もとから離れた瞬間、彼女を通じての何かが旅立つ。それは彼女自身の内にいる「少女」としての輪郭なのかもしれないし、今から次の電車で彼女の元へやってくる誰かかもしれない。

 そう考えている内に、僕の記憶の引き出しがひとつ開いた。極端なほど自然に。

望まない星の下で

1997年の夏。街の大きな県立病院で僕は産声をあげた。

幼い頃から生き物が大好きだった。両親は遠くへ車を走らせては、僕と妹を自然に触れさせてくれるような人たちだったので、虫網を車のトランクに折りたたんで詰めては、行った先でめいいっぱいに振るった。海へ行こうものなら、荒々しい岩場をアスレチックのように登り、岩の隙間からヒトデを捕まえたり、スルメを吊るしたりしてイソガニを捕まえた。ハンミョウ、オケラ、ジャコウアゲハイトマキヒトデ、マダコ、ワタリガニ。たくさんの生き物たちに出会った。

自由研究には、夏休みの間に捕まえた生き物たちの収集記録を作った。標本にするような技術もお金もなかったので、捕まえた生き物たちの写真を撮り、イラストを書いて記録を作った。妹が「海の生き物たち編」で、僕が「昆虫たち編」。夏休みが終わるギリギリ頃になって、泣きながらでも作ったのを今でも覚えている。少し自慢話をすると、小学生一年生から五年生まで、ずっと市内の自由研究コンクールで入選し続け、合計5枚の賞状を頂いた。

そんな虫取り少年が「彼」と出会ったのは小学校二年生の夏、もう少しで市内の土曜夜市も終わりを迎える頃だった。

おそらく、僕と同じ世代の人たちなら分かるかもしれないが、当時はアーケード式のカードゲームが流行の真只中にあった。女の子がお洒落をするゲーム。恐竜が戦うゲーム。僕はその中でも昆虫同士が戦うゲーム、「ムシキング」に夢中になっていた。その影響もあってか、僕は外国のカブトムシやクワガタに強い憧れを抱いていた。ただ、外国のカブトムシともなれば、その価格は国産のカブトムシとは比べ物にならない。一匹15000円の価格で市場に出されていたりもする。加えて、越冬をする種類はさほど多くなく、そのほとんどが一夏の間に死んでしまう。あまりにも高価で儚いその生き物たちを、当時小学生の僕が自宅で買えるはずもなく、僕はペットショップのカゴ越しに、ただ指をくわえて見つめるしかなかった。

そんな時、「彼」と出会った。ある平日の昼下がりの午後、学校を終えて自宅に戻った日のことだった。誰もいないリビング。黒いプラスチック蓋のついた虫かごが、ポツンと机の上に置いてある。中には手のひらほどの黒い大きな物体が、カゴの上部に張り付いている。僕は虫カゴを手に取り、その黒い物体を眺めた。それは長く勇ましいツノを三本持った、一匹の大柄なオスのカブトムシだった。名前はアトラスオオカブト。名前の「アトラス」は、ギリシャ神話の神の名前から取ったもので、赤道直下の小さな島々に生息する気性の荒いカブトムシだ。彼を見た僕は、驚きで声が出なかった。じっと眺めては、虫カゴの角度を傾けたりした。部屋の電気が黒い大きな羽に反射して、高級外車のボンネットのように、キラキラと鋭い光を放った。

そうこうしているうちに母親が二階からリビングに降りてきた。虫かごを見つめて目を輝かせる僕を見た母親は、嬉しそうに理由を説明した。母親が言うには、近所の公園の街路樹に彼はいたらしい。黒く大きな巨体を目の当たりにした母親は、まさか国産のカブトムシだとは思えなかったらしく、自宅に持ち帰ったのだという。まさかとは思ったが、どうやら本当の出来事らしい。その証拠に母親の手には、おそらくは彼がつけたであろう、無数の小さな切り傷が点々としていた。

晩御飯の時間。彼がどうしてなぜ公園の街路樹にいたのかという話になった。僕の実家は、幼い頃から家族全員で晩御飯の食卓を囲むことが普通になっていた(ただ、僕たちが中学に入り部活動を始めると、そういうわけにもいかなくなった)ので、今日の話題のテーマを挙げるとするならば、主にそれがメインだった。家族で話し合った結果、出てきた答えはひとつかふたつだった。おそらく、土曜夜市の夜店にあった昆虫くじから逃げ出したか、当たった人が飼いきれずに逃したか。いずれにせよ、人間が関与して彼を野生に放してしまったことは確かである。自らの望まない星に生まれ、ひとりで命を終えることが予め決まっていたら、どれだけ悲しいことだろう。彼の言葉を理解できるわけでもなければ、彼が僕たちの分かる言葉で話しかけてくれるわけでもない。ただ、彼の黒い真珠のような瞳は、どこか虚ろげだった。

家族で話し合った結果、彼を自宅で最後まで飼うことにした。幸い、カブトムシは国の生まれに関わらず、飼育自体の維持費はそう大したことはない。ホームセンターで腐葉土を買い、十分すぎるほどの広さをもった飼育ケースを買った。昆虫ゼリーを与え、たまに晩御飯のデザートに出た林檎を与えたりもした。昆虫なので、犬のように表情が豊かなわけではないが、当時の僕には彼が喜んでいるように見えた。

彼が飛ばないことに気がついたのは、飼育を始めて一週間程経過した時である。飼育ケースの掃除のために、彼を外に出していた。しばらく父親とケースの土を敷き直したりして、あれこれ夢中になっていた時、彼が細長い木の棒の先端まで登っていることに気がついた。カブトムシは高いところから空へと向かって飛び立つ習性がある。太陽や月に目掛けて羽を広げれば、それは確かに空へ向かっていると分かるからだ。なので、よく街灯などにカブトムシやクワガタが引き寄せられるのは、光る物体を月と勘違いするからである。でも彼は羽を広げなかった。ただ頑なに天井を見つめるだけで、その黒い高級車のような甲殻が開くことはなかった。今なら少しだけ思う。おそらく、彼は飛び方を知らなかった。ペットショップで生まれ、ペットショップで大人になった、養殖された異国のカブトムシ。羽を広げずとも、その勇ましい剣のようなツノを振りかざさずとも、餌は簡単に手に入る。そんな彼が、野生の環境でただひとり、生きていけるはずもなかった。

彼が自宅に一ヶ月ほどの間に、様々なことがあった。彼は外来特定生物ではないものの、本来ならば日本にはいない。それが野生で見つかろうものなら、僕の住んでいる小さな街では相応のニュースだった。夕方のニュースの特番に出演したりもしたし、地元の新聞の一面を飾ったりもした。彼はもちろんのこと、僕や妹も出演したりして、学校では少しだけ人気者になった。実家には今もその時のニュースの録画がビデオテープで残されており、新聞の切り抜きは大切にファイリングされている。母親が博物館関係の人に軽い時事報告のつもりで言った話が、思いがけない大変な出来事だったというわけだ。

そんな寸劇も少々あったが、その年の夏の終わりに彼は死んだ。彼が死んだ日のことはあまり覚えていない。けれど、いつもと同じような夏の終わりの日だった気がする。ツクツクボウシが命を繋ぐために必死に鳴いて、ススキの風に揺られる音が微かに聞こえるような夏の終わり。

僕は父親と一緒に彼を標本にした。標本などその時初めて作ったのだが、思ったよりも綺麗に完成した。いつもなら死んでしまった昆虫たちは土へ埋めるのに、彼のことはそうしなかった。この夏が終わり、秋がドレスを脱ぎ捨てたような冬が来ても、彼のことはずっと忘れたくなかった。ハッキリとした「カタチ」をもって、僕の側にいて欲しかった。もしも彼が望まない星の下に生まれたのだとしたら、僕たちが彼の望んだ星になりたかった。

今でも彼は実家の玄関にいる。黒い大きな甲殻は、高級外車のような光を放つことはなくなり、中古のバーゲンセールに投げ売りされた車のボンネットみたいに錆びついてしまっている。ただ、僕が実家に帰ると、彼とは必ず目が合う。そうする度に、もしかすると今すぐにでも羽を広げて遠くへ飛んでいく気がしてならない。僕はそれを望むし、きっと彼もそれを望む。もしも彼が羽を広げ、小さな街を見下ろしながら自由に飛べたなら。彼は遠く誰も知らない、彼自身が望む星に辿り着けたのだろうか。だとしたら、彼はひとりのカブトムシとして、生き物として幸せに暮らせたのだろうか。彼の望む星が何処にあって、その星はどんな所なのかは知らないけれど、僕もいつか行ってみたいと少しだけ思う。

 

星座

オリオン座はもう随分と山の端へと傾いていた。

「就職。この街に戻ってくるの?」

彼女は、この日のために何年も前から準備していたかのようにそう言った。

「いいや。関西か東京に行こうと思う。一度は都会に行った方が、相応な経験を詰めるかなと思ってるんだ。」

「そう。不思議ね。あなたが変に尖った鉛筆を握ったあの日から、まるで人が変わってしまったみたいに、あなたはどんどん遠くへ行ってしまう。」

彼女はそう呟いて、まだ誰も知らない遠い星たちを見つめるような眼差を僕に向けた。

「そうかな。僕はいつまでも、スピッツを聞きながら地元を出た時の僕のままで、いつかこの街に帰ってくるだろうと、ずっと思っているよ。何だか可笑しいね。」

「何それ。全然、可笑しくない。」

「そんなことないさ。」

本当にそんなことはなかった。僕はいつまでも、地元を出た18の頃の僕のまま。もっと言えば、枯れ草の焦げたような匂いのする湿気に包まれた原っぱを、自由奔放に駆け回る少年のままだ。もしかすると、僕は彼女とは違う星の下に生まれたのかもしれない。

僕はカウンターの隣の席から、ぐっと手を伸ばして灰皿を自分の席へと寄せた。

「やっぱり、あなたが煙草だなんて全然似合わない。ずっとスポーツマンだったのに。」

「きっとそれはね、昔の僕を知っているからだよ。」

「またそうやって、煙に巻いて逃げるのね。」

「煙草だけに?」

「やめて。全然面白くない。」

相変わらず、彼女は切り捨てるように物を言う。相変わらず、僕は面白くもない冗談を思いつきで言う。ふたりはずっと、制服を着て一緒に帰った頃のふたりのままだった。

「もしも、いつかこの街に戻ることになったらさ、最初は君に知らせるから。」

「永遠に来なさそう。」

「待ってとは言わないさ。」

「言われなくても待たないわよ。でも、そうなったら少しだけ嬉しい私もいる。」

その言葉を聞いた僕は、彼女と同じ星の下に生まれていないことを確信した。

昔の人たちはどうやって星座を作ったのだろう。案外、指で適当になぞってできたものなのかもしれない。違う星と違う星を、まるでひとつにするかのように、ゆっくりと指でなぞる。そんな風に。

「あの…、3年間、本当にありがとうございました。」

必死に考えて、僕の口から出てきた言葉のカタチは、あまりにも空白で飾り気のない白だった。

「こちらこそありがとう。たくさん色々な話、聞かせてくれたね。」

先輩は、はっきりと余裕をもった口調で、軽快に答えた。

追いコンの二次会帰り、終バスを逃した先輩と僕は、歩いて家まで帰る途中だった。

「最近ね。金縛りによく合うの。私、そういうの多くてさ、幽体離脱とかも経験してるのよね。可笑しいよね。」

別れ際になって、先輩は突然そんな話を僕にした。

「ストレスとかではないですよね…?最近、辛いこととかありました?」

「うーん。特になかったかな。本当に何のキッカケもなく突然来るの。自分でもわからないな。」

「先輩が辛くないのなら、よかったです。」

お酒が回って足元がふらつき、色々な言葉が頭の中で駆け巡った。そのせいか、僕はそれ相応の言葉が出てこず、曖昧な返事しか返せなかった。

「私のアパートこれだから。もう大丈夫よ。家まで送ってくれてありがとうね。」

「いえ、帰り道でしたので気にしないでください。大丈夫ですから。」

僕は、本当は二人で歩いて帰りたかったことを、心の引き出しにそっと隠した。

「本当にありがとうございました。お元気で。」

深々と頭を下げて、僕はそう言った。

「こちらこそ、本当にありがとう。きっと、また会う日は来ないわね。さようならお元気で。」

「さようなら。」

先輩がアパートの階段を登り終えるのを見届けて、僕は背中を向けた。

一人になった帰り道。色々なことを思い出した。制服の襟がじっと汗ばむくらいの春だった卒業式のこと。満開の桜が散り散りになって、アスファルトにできるピンク色の絨毯のこと。新緑が眩しいくらいに輝く、五月色の山々のこと。ドレスを脱ぎ捨てた花嫁のような冬のこと。言いたいことなど山ほどあった。先輩にもしも恋人がいなかったら、僕はあの場で、もっとましなことが言えただろうか。もう忘れられたように車のいなくなった高架下で、一筋の涙が流れ落ちた。

きっと、また会う日は来ない。先輩も僕もまた、同じ星の下で生まれていないのだろう。

金曜日、明け方のユーレイ。

緩く、浅い眠りだった。

時刻は午前5時。予定よりも1時間早く目を覚ました。僕は寝間着のまま気怠そうに煙草を咥えて、玄関から裸足のままサンダルを履いてテラスに出た。日中は春の気配が感じられるようになったが、そうは言っても朝方はまだ冷え込む。車の窓ガラスには霜が降りていた。手足の指先に冷たい空気が刺さる。僕は震える手を押さえ込むようにして、オイルが残り僅かになった安物のライターを握り、煙草に火をつけ大きく吸い込んだ。

夢を見た。昔、通学路に建っていた、燃えた家の夢。あの家の一家はとうの昔に死んでいる。人間関係の縺れで、恨みを抱えた外部の人間に刺殺された。事件の後、家の周囲には黄色いテープが貼られ、誰も立ち入れなくなった。通学途中、自転車を漕ぎながら横目でその家の窓を何度も見た。まだ誰かがいたような気がする。

それから二週間後。事件について、ご近所井戸端会議のほとぼりも冷めた頃に、家は燃えた。或る日の夜に突然。本当にそこに物体があったのかと疑うほど、跡形もなく消えていた。警察が血眼になって原因を調べたが、結局真相は深い闇の中に葬られたまま、誰にも分からなかった。ただ、僕は思う。あの誰もいないはずの二階の窓から、じっとこちらを見ていた人。彼または彼女が火をつけたのだろう。

あの土地は今もまだ更地のままだ。誰も買おうとしない。

なぜあの家の夢を見たのだろう。僕は部屋に戻り、薬缶で湯を沸かしながら考えた。あの家の一家は、数回しか見かけたことがない。大学生くらいの女の人と、その母親。友達がその家の隣に住んでいたが、接点はそのくらいだった。

薬缶が鳴ったので、眠たい目を擦りながらコンロの電源を切った。それと同時に、考えていたことは頭から消えてしまった。

男たち

風が結婚した。

成人式の日、そんな話が突然出てきた。

「風って、中学の時の?」

別に疑うつもりはなかったのだが、僕はビールグラスを手に持ったまま、反射的に聞き返してしまった。

「そうやで。結婚して、もう娘もおるらしいけん。」

「そっかあ。もうそんな時期なんや。っても少し早すぎる気もするなあ。」

僕はため息交じりの返答とともに、ビールグラスをそっとテーブルに置いた。

成人式の後、僕たちは同窓会から逃げ出し、幼馴染同士で温泉街の居酒屋に来ていた。地元の瀬戸内海で採れたセミエビがこの日のメインで、背中をカニスプーンで掘り返しながら食べた。祝日の温泉街さながら、周囲の席には浴衣を着た観光客ばかりが目立つ。僕たちは少しばかり浮いている気もした。今頃、街の中心部にあるアーケード街の居酒屋では、地区を越えて新成人たちが続々と集まっていることだろう。どの店にも顔馴染みがいて、道をすれ違うたびに互いに抱擁し合う。僕たちは何故かそこへは行かなかった。

風とは小学校からの付き合いだった。活発な少年で、弟想いの長男坊。住んでいる家も近所で、地区の同世代の子たちと共に、よく公園で遊んだ。それなりに喧嘩もした。ただの口喧嘩の時もあれば、互いに殴り合いの喧嘩をした時もあった。おそらく、五分五分だったと思う。地区の子達と同様、同じ中学に進み、同じサッカー部に入った。僕はサッカー経験はあったが、風は未経験者だった。入部早々のポジション決めで、体格の良かった風はGKになり、足の速かった僕はFWになった。

風と僕、それから昔馴染みの友達たちは、沢山やんちゃもした。はっきり言ってしまえば、相当な悪行も積んだ。道で拾った財布の中身だけを取り出して、後は防波堤から海に投げ捨てたり、自転車の荷台に打ち上げ花火を括り付けて走り回ったりした。他にも、学校からの下校途中にあったお酒の自動販売機で、缶チューハイを買っては、みんなで飲みながら帰った。灯油をかけたブラックバスに火をつけ、自転車からぶら下げて池の周りを走った。無茶苦茶だった。あの頃の僕たちは本当に無敵だった。怖いものなんてなかった。防波堤からジャージで海に飛び込んでも、釣りをするための島へ渡る渡船に無賃乗船をしても、僕たちを止めるものは何もなかった。ただ明日の部活が面倒臭いことや、定期テストで赤点を取った時の罰走を除いては。

風と完全に連絡を取らなくなったのは、中学3年の半ば頃だったと思う。

彼は部活を辞めていた。彼は中学2年の頃に、顧問との折り合いが悪くなった。その頃からお互いに疎遠になり始め、彼が部活を辞める頃には会話はほとんどなくなった。まだ自分でも疎遠になった原因はよく分からない。学年が変わった頃には、学校ですれ違う際の挨拶程度になっていた。

それから、確か中学3年の夏頃、風は少年院へ入れられた。担任の先生に殴りかかり、それが大ごとになって警察沙汰にまで発展したのだ。僕は風とは別のクラスだったので、実際に現場を見たわけではない。ただ、授業中の廊下がやけに騒がしかったことと、鳴り響くパトカーの音だけ覚えている。

「まあ、幸せそうで良かったよ。」

幼馴染みは、煙草の煙を吐きながらそう言った。

そうだよね。その一言に尽きる。たとえ過去に過ちを犯していたとしても、それを償うのは自分だ。人生の答えが絶対に導き出せる方程式なんて、まずないだろう。もう何かを与えられるような歳でもないし、防波堤から海に飛び込むこともできない。ただ、少しずつでも前を向いて進むしかないんだろうね。