シティボーイは泣かない。

古い引き出しの奥に、ずっとしまわれていた手紙のような話。

水夜

耳を澄ませば、夜の聲が聞こえる。

 

星と月の間を縫い付けるようにして、実体を持たない不確かなそれは、暗闇の中からそっと耳元に語りかけてくる。身を包んだ布団の中でも、昆虫たちが狂うように群がる街灯の下でも、日が西に落ちた後ならばどこでも聞こえる。目を閉じると、そっと僕の手を取るようにして、少しずつ体に纏わりつく。その瞬間、このどうしようもない暗闇でも、ああ。独りじゃないんだな。と確かに思う。寝苦しい熱帯夜も、寒い寒い冬の夜でも、夜の聲は耳元で語りかけてくれる。

耳を澄ませば、夜の聲が聞こえる。

 

覚めてしまった夢の話と、その続きの話。液体のように流動的な夜を過ごしたいと思った。何回も見慣れたはずの交差点を、脇にある本屋の2階から見下ろす。時刻はAM1:00。交差点近くの繁華街は、喧騒に包まれているにも関わらず、人は疎らで足元には紙くずが無数に転がっている。自分の不在を物ともせず、この街は確かに呼吸をしていた。昔住んでいた街ではない、どこか遠くの街。僅かながらのビルの隙間を抜けると、閑静な住宅街が広がっていて、裏手にある山からは青い海が見える。知っているような懐かしい風が、西の方から吹いていた。

 

冬の夜のベランダに寝巻き。独りで吸う煙草は夜の味がする。白いシャツの汚れが何回洗濯しても落ちなくなったこと、昨日の夕方に気がついた。夜が寒く語りかけるようになった頃、私達はかつて存在した夏という季節に、忘れ物をしたことを思い出す。

顔は覚えているけど、名前を忘れてしまった人。名前は覚えているけど、顔が出てこない人。心の中で地縛霊になって、みんなしてひっきりなしに喋りかけてくる。そうやって思い出した時にだけ、過去は存在する。偽りの記憶の中でライターに火をかざすように。

 

10年前に埋めたタイムカプセルの中身もうやむやなままに、夜にそっと話しかける。液体のように流動的な夜。闇に浮かぶ自動販売機の灯りが孤独を指し示していたので、缶コーヒを一本買った。いつも無人のはずの電話ボックスの中には、珍しく男の人が入っていた。受話器を手にすることもなく。

缶コーヒーの蓋を開けた拍子に夜の住人になる。いつもそう。

別れは慎ましく、それでいて簡潔に。声を忘れた夏。手のひらの温もりを忘れた秋。

目尻の皺の数を忘れた冬。好きな食べ物。二人で行った場所。部屋の間取り。お揃いのマグカップ。不揃いの茶碗。全てを忘れたのはいつだったか。缶コーヒーの中身が空っぽになった時には、曖昧な朝を迎えているはずだ。

 

そっと深く、静かに、耳を澄ませば、夜の聲が聞こえる。