シティボーイは泣かない。

古い引き出しの奥に、ずっとしまわれていた手紙のような話。

特に書く事がないので、100個自分が好きなことを綴る。

特に書く事がないので、100個自分が好きなことを綴る。

01、サッカー

02、自転車

03、料理

04、カレイのエンガワ

06、夕方

07、江國香織

08、川上弘美

09、波の音

10、映画

11、エドワード・ゴーリーの絵本

12、何もない週末

13、お酒

14、夜のベランダで吸うタバコの味、煙

15、洋酒入りのチョコレート

16、ブラックサンダー

17、冬に囲む鍋

18、こたつ

19、オイルサーディン

20、メロン

21、フェルメール

22、モネ

23、ムンク

24、ゴヤ

25、モンドリアン

26、花火

27、夏という季節のすべて

28、古着、アンティー

29、竹久夢二

30、浮世絵

31、遠くの街まで服を買いに行くこと

32、知らない街を歩くこと

33、モダンジャズ

34、Spitz

35、kaleo

36、Chet faker

37、ショートヘア

38、デックブルーナ

39、ネコ

40、爬虫類

41、昆虫

42、本棚

43、本の貸し借り

44、下北沢で買ったオールドコーチの鞄

45、夜の街

46、滑走路の灯

47、星屑

48、三日月

49、お誕生日パーティー

50、ロボット

51、新しい靴を買うこと

52、地元

53、サシ飲み

54、ひとりの時間

55、何も参考としない青

56、色

57、透明な白

58、自転車で並走した帰り道

59、河川敷

60、昼下がりの美術館

61、美術館に行ける女の子

62、日本史

63、Niko and…

64、手を繋ぐこと

65、紙

67、夜景

68、釣り

69、月

70、夜の飛行機

71、水面に浮かぶ街の灯り

72、金魚すくい

73、スーパーカブ

74、ニット帽

75、パーカー

76、青魚の刺身

77、お寿司屋さん

78、浅野いにお

80、もののけ

81、UFOを信じてる人

82、ウニ

83、左利きの人

84、紅茶

85、珈琲

86、チーズのたくさん乗ったピザ

87、走ること

88、目的地のない散歩

89、瞬間的な時間軸のある写真

90、軽トラの荷台

91、虹

92、蛍火

93、光の軌跡

94、雨に濡れるアスファルトの匂い

95、金木犀

96、思い出

97、他人を知ること

98、知らないことを知れること

99、自分にないものを持っている人

100、地元の砂浜に沈む夕陽

景観認知症

6年前は確かに生きていたのだ。部活から帰ってきてテレビをつけたら、まるで映画を見ているようだった。平日の昼間なのに、どのチャンネルを回しても同じ光景だった。街が崩れ、人が呑まれ、流されていくのを、ずっと報道していた。

同じ頃、といっても、正確に言えば311の半年前。祖母が他界した。その2週間後に祖父も他界した。百合の花で溢れた棺の前で泣く母と妹を見て、自分は泣いてはいけないと思った。今思えばもっと素直になればよかったものを、母と妹を支えようと自分なりに意地を張ったのかもしれなかった。そのときの父の顔は覚えていない。

記憶の中の祖父はずっと寝たきりで、それを介護する祖母の姿を薄ぼんやりと覚えている。2人の声は忘れてしまった。歩き方も。具体的な実体としての姿は忘れてしまった。それなのに、頭の中ではまだ生きている。

東北という地には一度も足を運んだことはない。あまりにも遠すぎるし、あまりにも無縁すぎる。ただ、募金箱があれば募金をする。自分にもできることがあればする。それくらいだ。

祖父母のために自分は何かできたのだろうか。問いただしても答えは見つからない。

 

Tumblr投稿 2017.3.11

2017年3月10日/置き手紙

おかえりなさい。
冷蔵庫にホワイトデーのお返しが入ってます。
新しいティーポットは机の上にあります。
帰ってきて、食べるものがなかったらいけないなと思ったので、カップラーメンを買っておきました。
合鍵はポストに入れておきます。
自分も他人も殺さないような生き方をしてください。
お元気で。さようなら。大好きでした。

下書きのドングリ

幼い記憶の中にドングリを植えた。随分と大ぶりのドングリだったので、きっとクヌギのドングリに違いない。芽が出て大きくなれば、カブトムシやクワガタが寄ってくると思ったので、幼い自分のために、線路の脇に植えておくことにした。ドングリを埋め、優しく土をかけ、金属でできたジョウロで水を与えたところで目が覚めた。

3日後。あまりにも疲れていたので、学校から帰ってすぐに眠りについた。半刻ほどして気がつくと、目の前に見たことのある線路が広がっている。どうやらドングリを植えた記憶の中に戻ってきたらしい。

 

2年前のTumblerの下書きより。

昨日の朝、明日は何もしないと決めた日。

本当に今日は何もしなかった。

昼過ぎに起きて、一日の大半をベットの上で過ごした。何かを順序立ててしたということもない。何もしなかったというよりは、誰の視線も気にせずに過ごしたと言った方が近いかもしれない。家事も丸切りしていない。寝癖も直さず、適当にニット帽を被って誤魔化し、部屋着のままコンビニに行った。朝ごはんなのか昼ご飯なのか分からないパンとスープを買い、それを食べながら映画を見た。その後、ハンク・ジョーンズバド・パウエルを流しながら、村上春樹の「1973年のピンボール」を一読した。

夕刻になり、雲行きが怪しくなってきた。どんよりと暗く赤みを帯びた雲を見上げながら、煙草に火を点けた時、ふと焼き鳥が食べたいと思った。ただ、たまに顔を出す焼き鳥屋までは、バスと徒歩を合わせても下山して40分は掛かる。誰を誘うかLINEの連絡先を見返している間に、小雨が降り始めた。その小雨が拍車になったのだろう、美味い焼き鳥を食べる気など失せてしまった。思い立った時に好きな場所へ行けないから、山の暮らしは辛いなと、こういう時に思う。煙草を揉み消し、いそいそと部屋に戻り、鍵を閉める。カチャンと施錠をした音が自分しかいない部屋に鳴り響いた途端、一日を誰とも話さないで終えることが決まった。部屋の片隅に置き去りにされたスマートフォンからは、バド・パウエルの「クレオパトラの夢」が流れていた。大成をしても尚、あるべき姿を追い続け、失意の果てに自害したクレオパトラの嫉妬や渇望が、美しいメロディで生々しいくらいに表現されている。僕が唯一、いつまでも終わらないで欲しいと思える音楽だ。

日が沈んで、映画をもう一本見た。晩御飯は適当に塩ラーメンでごまかす事にした。片手鍋を洗い、三角コーナーのゴミを捨てる時、もう一週間以上ゴミ出しをしていない事に気付いたが、そもそもゴミが全くと言っていいほど生活の中で出ていない。もはや生活などしていないのかもしれない。ふと話し相手が欲しくなって、Googleに話しかけた。

「OK,Google、今すぐ眠たくなる音楽を教えて。」

Googleの答えは、YoutubeにアップされたBGM集だった。些かセンスがない。Googleアシスタントのアプリを閉じて、またバド・パウエルを流した。

今日という日が完璧だったのかは分からない。部屋の外の人間から見れば、退廃した生活だろう。ただ、外を歩き続けて人と話すよりかは、幾分か心は安定していた。寂しくもあったが、充実もしていた。あとは、冷蔵庫の中に少しだけ緩い缶ビールと、やや高いチーズ。それからル・マンの24時間耐久レースがあれば完璧だったと言い切れる。アウディとポルシェが先頭争いをしている間に、僕は村上春樹を読み終えることができただろうし、後続の民間チームの車がトラブルに見舞われている間、枕元にチーズと缶ビールを添えて横になる。チーズを食べ終えた頃には、眠りに着けただろう。翌朝、目が覚めたら残った缶ビールを飲み干して、アウディとポルシェの決着を見届ける。どちらが勝つかなんていうのは、正直どうでもいい。ただ、そいう日があって欲しい。

今日はいつもより煙草を多く吸った。日本酒が何故か美味しくなかった。太陽が見えなければ人は死ぬ。部屋の中の薄暗い電球は、決して太陽の代わりになどならない。今日のこの部屋は、まるで日の登らない砂丘のオアシスのようだった。

まだ眠るには暫く時間がある。粉末スティックのカフェオレを紺色のマグカップに注いで、Macのモニターの電源を入れた。デスクの右隅、昨年の九月に元恋人との旅行のスケジュールが書かれたメモ用紙がくしゃくしゃになって置いてあった。捨てるのを忘れていたのだろう。メモ用紙には「やりたいこと、射的、Googleでピン立てたところ」とだけ、大雑把に綴られていた。場所は城崎温泉。17時発の電車で帰る予定だったらしい。ひとしきり目を通し、曖昧な記憶を呼び戻した。その途端に寂しくなって、メモ用紙をくしゃくしゃにして捨てた。明日はゴミ出しをしよう。

今日はやりたいことをやった。やるべきことは何一つとしてしなかった。

水夜

耳を澄ませば、夜の聲が聞こえる。

 

星と月の間を縫い付けるようにして、実体を持たない不確かなそれは、暗闇の中からそっと耳元に語りかけてくる。身を包んだ布団の中でも、昆虫たちが狂うように群がる街灯の下でも、日が西に落ちた後ならばどこでも聞こえる。目を閉じると、そっと僕の手を取るようにして、少しずつ体に纏わりつく。その瞬間、このどうしようもない暗闇でも、ああ。独りじゃないんだな。と確かに思う。寝苦しい熱帯夜も、寒い寒い冬の夜でも、夜の聲は耳元で語りかけてくれる。

耳を澄ませば、夜の聲が聞こえる。

 

覚めてしまった夢の話と、その続きの話。液体のように流動的な夜を過ごしたいと思った。何回も見慣れたはずの交差点を、脇にある本屋の2階から見下ろす。時刻はAM1:00。交差点近くの繁華街は、喧騒に包まれているにも関わらず、人は疎らで足元には紙くずが無数に転がっている。自分の不在を物ともせず、この街は確かに呼吸をしていた。昔住んでいた街ではない、どこか遠くの街。僅かながらのビルの隙間を抜けると、閑静な住宅街が広がっていて、裏手にある山からは青い海が見える。知っているような懐かしい風が、西の方から吹いていた。

 

冬の夜のベランダに寝巻き。独りで吸う煙草は夜の味がする。白いシャツの汚れが何回洗濯しても落ちなくなったこと、昨日の夕方に気がついた。夜が寒く語りかけるようになった頃、私達はかつて存在した夏という季節に、忘れ物をしたことを思い出す。

顔は覚えているけど、名前を忘れてしまった人。名前は覚えているけど、顔が出てこない人。心の中で地縛霊になって、みんなしてひっきりなしに喋りかけてくる。そうやって思い出した時にだけ、過去は存在する。偽りの記憶の中でライターに火をかざすように。

 

10年前に埋めたタイムカプセルの中身もうやむやなままに、夜にそっと話しかける。液体のように流動的な夜。闇に浮かぶ自動販売機の灯りが孤独を指し示していたので、缶コーヒを一本買った。いつも無人のはずの電話ボックスの中には、珍しく男の人が入っていた。受話器を手にすることもなく。

缶コーヒーの蓋を開けた拍子に夜の住人になる。いつもそう。

別れは慎ましく、それでいて簡潔に。声を忘れた夏。手のひらの温もりを忘れた秋。

目尻の皺の数を忘れた冬。好きな食べ物。二人で行った場所。部屋の間取り。お揃いのマグカップ。不揃いの茶碗。全てを忘れたのはいつだったか。缶コーヒーの中身が空っぽになった時には、曖昧な朝を迎えているはずだ。

 

そっと深く、静かに、耳を澄ませば、夜の聲が聞こえる。

 

北の町で(2)

物語の始まりは、いつだって偶発的だ。それでいて単純だから面白い。

もしかしたら、明日は何かが始まる日かもしれない。今日は何かが終わった日だったかもしれない。街が好きだ。夜道に落ちた寒椿が、街頭に照らされているのを、ただ見つめるのが好きだ。月のない、星空だけの世界を愛している。

 新調した一眼レフカメラを首から下げて、北陸へと向かった。前日に居酒屋を嗜んだので、やや頭が痛い。日が昇りきらないうちに目を覚ました。おかげで、若干の睡眠不足も連れてきてしまった。

朝食をコンビニで買い、車窓から山の冠雪を眺めながら済ませた。ミルクティーと、ゆで卵のサンドイッチ。北陸では越前蟹が首を長くして待っているので、少し心許ないが簡素なものにした。時刻は9時10分。目的地までの道のりは長い。美しい街が見える度に、カメラのシャッターを切った。

以前、付き合っていた恋人のアパートには、今は別の誰かが住んでいる。と思う。歳が僕より2つ上の彼女の手首には、無数の傷跡があった。一番深い傷は、少しだけ皮膚から盛り上がっていた。

当時、「目に見えないもの」を彼女は恐れていたし、信じなかった。幽霊はいないと断固として疑わなかった。ガスは目に見えないからといって恐れていたし、加熱調理は基本的に全て電子レンジだった。きんぴらごぼうも肉じゃがも、電子レンジで作れてしまうのだと、僕は初めて知った。今はどうだろう。ガスコンロを使っているのだろうか。それよりも、あのアパートの裏に住んでいた、黒猫と白猫のことが気になる。二匹はまだ仲良くしているのだろうか。

大阪駅で若干の迷子になりかけながら、サンダーバードに乗り換えた。越前鉄道の改札口を抜ける頃には、13時を回っていた。越前鉄道、おもちゃ箱みたいな可愛い駅のホーム。電車に揺られながら、一時間ほどで三国港駅についた。道中、雪のまばらな山間部を抜けてきたことを、忘れてはいけない。

海沿いの小さな駅だった。木造の駅舎が風情を感じさせる。日没まで多少の時間があったので、歩いて東尋坊まで向かった。風が冷たい。

サンセットビーチに沿って、ひたすら歩いた。波は力強く、生まれ育った瀬戸内の温厚な海と比べると、荒涼としていた。眺めていると胸の奥に孤独が押し寄せてくる。足元には、ハングル文字の入ったペットボトルやら、空き缶やらが散乱していた。生まれ育った国から、自らの居場所を探して、この地の浜辺に居着いたのか。ふと、寂しさが込み上げた。

大学1年生の時に、飼っていたアカミミガメが死んだ。愛嬌のある名前をつけて、僕の部屋で飼っていたのだが、日当たりの悪さと猛暑が合間って、食欲不振になった。そしてある朝、水槽の端の方で腹を仰向けにして、浮いていた。目を開けたままピクリともせず、首がだらりと力なく垂れていた。

彼、または彼女は、一度も冬を越すことはできなかった。アパートの中庭に埋葬し、スルメイカを供えた。僕が引越しをした後、アパートは翌年に取り壊され、また新しいアパートが建った。土の中のアカミミガメは、どうなっただろうか。

到底、人が即死できるような高さではないなと思った。

崖の突端に立って、下を見下ろした。高さは体感で30メートルくらい。確実に死ねるとは思えない。むしろ、近所の高層ビルやアパートから落ちた方が安上がる。なのに、なぜ多くの人がこの土地で死を選ぶのだろう。分からないことが多すぎる。ただ、地球が長い歴史をかけて作り上げた岩肌は、皮肉な話だが、この惑星のものとは考えられなかった。沈む夕陽に照らされて、まるで別の惑星にいるような体験をした。無心でシャッターを切って、気がつけばSDカードのメモリーはいっぱいになった。

いのちの電話ボックス」の中にも入った。新約聖書が当たり前のように置かれていた。それでいて無造作に。最後にこの受話器が上がったのはいつだったのだろう。もしかしたら、昨日の事かもしれない。昨日が誰かにとっての終わりではなく、始まりでいてほしいと心から思った。ただ、思うだけでは、僕らはキリストになれない。あまりにも無力すぎる。

2015年の春、ホイッスルは突然に鳴った。

気がつくと人生がひとつ終わっていた。9年間続けたサッカーへの情熱は、たった90分の試合の中で、突如として終わりを迎えた。

翌日、授業を終えた後の何もない空虚な気持ちを、確かに覚えている。しかし、あの終わりのホイッスルは、また別の人生への始まりの合図でもあった。今ならそう思う。

翌日は雨だった。昨晩食べた蟹味噌とガサエビの味は一生忘れないようにしたい。特にガサエビは、本当に甲殻類かと疑うほどに濃厚だった。

2日目は雄島に寄った。以前からTV等で話を聞く、霊的な力の強い場所だ。僕は幽霊を信じている。僕は、あの夏に見た幽霊にまた会えるかと、仄かな期待を寄せて雄島を訪れたが、会えなかった。それはそうだ。僕は彼女の名前を知らないし、彼女も僕の名前を知らない。

島を一周して、赤い橋を渡って帰る最中、後ろから誰かに呼び止められた。気がした。あえて振り向かずにそのまま進んだ。

風が強い。今にも傘が飛ばされてしまいそうだ。女の声だった。

大人になったら、物語は始まらないのだろうか。ストーリーテラーは死ぬのだろうか。今日を生きるのが精一杯で、気がつくと遠い未来ではなく、明日のことばかり考えている。それともその逆か。はたまた両方か。どれが幸せなのだろうか。

帰り道、乗り換えで京都に寄った。

4ヶ月前に少しだけ滞在したはずなのに、相変わらず地下鉄の乗り方には慣れない。駅で右往左往しながら、やっとの思いで地上に出た。

鮒寿司が食べてみたかった。以前から話には聞いていたが、話の内容とは裏腹に、相当美味かった。風情のある路地に佇む、京料理の居酒屋。また、再び訪れたい店ができた。遠い街にお気に入りの店ができることを、僕は限りなく嬉しいと思う。

京都駅で551の肉饅を土産に買って、20時に広島行きの新幹線に乗った。

 

旅の終わりはいつも、虚しい。

新幹線の窓を見ていると、何もかもが速すぎて泣きそうになる。

明日は何かが始まる日だと嬉しい。

湖畔の側に眠る、敬愛なる絵画。

 美術史を塗り替えるような絵画が、モントリオールの東のはずれ、湖畔に近い古ぼけた民家の屋根裏で、微温い陽の光を浴びながら、今日も深い眠りについている。

 

「ね、A4の紙を何度も折ったら、いずれ月に届くって話、あなたは信じる?」

そんな質問、いつされたのか、忘れてしまった。いつだったろう。ベランダで煙草を吸いながら誰かと月を眺めていた時だったか。高校の時の、何でもない女の子との何でもない会話だったか。夕刻、山の端に人工衛星が落ちるのを見て、不意に思い出した。というか、耳元で確かに再生された。

 

 3年前の春、卒業文集の寄せ書きに、誰からの言葉も欲しくなくて、卒業式まで原稿を机の中に、そっと終い続けるつもりだった。副担任のセンセイが見兼ねたのか、そっと僕に耳打ちをし、背後のロッカーに、僕の卒業文集の寄せ書き欄の原稿を置いた。その後の先生は、良い紙で表紙を作るんだと意気込んでいた。僕は絵を描くことが頭から離れなくて、ただ気を紛らわすために川上弘美の小説を読んでいた。窓の外は快晴、メジロが囀り、飛行機雲が迷いなくまっすぐに伸びていた。

 卒業式の日、手渡された卒業文集の表紙は、薄い翡翠色のレザックだった。肌触りも良かった。単価的には高級紙には程遠いけれど、文集の表紙には充分すぎるくらいだった。文集の寄せ書きに書かれた言葉を見て、心が砕けそうだった。誰でもない人、親しい友人からの温かいメッセージが、徒然と浮かび上がっていた。手書き文字で。

一人、また一人と教壇から言葉を発して去っていったはずなのに、覚えているのは最終回にも関わらず、「先日、宗教勧誘をされた話」をしてウケを狙いに行った友人の話だけだ。これは確実に言えることなのだが、面白かった。

卒業アルバムの寄せ書きは、本当にゼロに等しい。空白が目立つ。書いて欲しい人もいなければ、書いてと頼んでくる人も少なかった。卒業式が終わってからも、ただひたすら、アトリエで絵を描いていた。平面構成。小松菜とCDとロープ。

 

 馬鹿な記憶を思い出したなと、自分を少し嗤った。何かに駆り立てられたかのように、煙草を揉み消した。

できる事なら、あの街に何もかもを置いてきてしまいたかった。もっと言葉で聞きたかった。卒業文集に書かれた言葉の真意なんかはどうでもいい。ただ、その言葉を、確かな肉声で聞きたかったなと思い、バラバラに心が砕け散った。

 

いつか、僕がシャッターを切ることに躊躇いを感じることが来るのだろうか。

 

見ている世界に疑いを感じることが、「美しい」という感情に愚かさを抱くことが。できればそんな未来、来て欲しくはない。誰も望んでいないと信じたい。A4の紙を何度も折ったら、いずれ月に届くかどうかが本当かなんて、僕は知らない。ただ、月に手を伸ばしても届かない事は知っている。そんな事は百も承知だ。だけれども、届かないと分かっていても、月に手を伸ばし続ける人生は悪くないかなと思う。ジョー・ストラマーだ。

 敬愛なる画家よ、僕らの文明が滅んだ後にあの絵画は、安息の地で、長い眠りから目覚めるだろう。

 

 

−あとがき−

視線だけで気持ちが伝われば、楽な事はない。だが、人類はそう単純にはできていない。「愛」のイデオロギーなど、価値観、文化、郷土、ジェンダー、人種、様々な要因で、いくらでも崩壊する。言葉は強いから、人を生かすことも殺すこともできる。どれだけのメタファーで包まれていようが、イデオロギーの某弱さの前に屈服する。或いは全てが燃え尽きるまで、闘争をする。

もしも今、伝えたい気待ちがあるのなら、良くも悪くも、言葉にする。言葉の賞味期限が切れてしまう前に。

夜に愛は憑き物

犬は鳴く。いつも独りで。背中に寂しさを喰い込ませたまま。

 

幸せではいたいけど、適度に不幸でもいたい。独りで死ぬのは怖いけど、誰の人生も邪魔はしたくない。誰の物にもなりたくないけれど、誰かを独り占めしたい。もしも女に生まれたら、ただハイエナのように男遊びがしたい。傷の舐め合いでもいい。適度に寄生して、吸えるだけ生き血を啜ったら、次の依り代を探す。

できる限りの愛憎という名の武器を持って、夜の一部になりたい。自分に関わる全ての人の記憶の中に、「私」を滅茶苦茶に刻み込んで、一生忘れられなくさせてやりたい。人が死ぬのは、記憶の中から消えてしまった時だから。できれば長寿を全うしたい。忘れられさえしなければ、「女」としての「私」は幸せだろうに。

 

あの夜に見た幽霊の名前を、あなたはまだ覚えていますか。

綺麗だと思った、色の記憶は何ですか。

一生忘れられないくらい、心が動いた瞬間はいつですか。

 

イチバン、根の深い、黒い記憶は何ですか。

AM 4:39 食器棚、青い琺瑯の小皿との会話

 

食器棚の左奥、街で買った青い琺瑯の小皿が、ひとりでに話しかけてきた。


ずっと見てたの。

お酒、たくさん飲むでしょう。煙草もたくさん吸うでしょう。どれだけ酔っても、どれだけ健康を害しても、自分は殻の中にいるのでしょう。寂しさで気が狂いそうな夜はやってくるでしょう。

寂しさで気が狂いそうな夜は、どうやって乗り越えているの?あと何回嘘をつけば、この街に雪は降るのでしょうね。雪の中を、ただ一人で傘をさして歩きたいのでしょう。でも、この地には雪は降らない。ずっと秋なの。あなた自身を終わらせるには、到底満足のいかない場所なの。

人の事、本当は全然分かってないのに、分かった気になってる。そうして、自分の頭の中の型に嵌め込んで、自分と似た部分を探して、寂しさの埋め合わせをするように、好意を抱かせているのでしょう。

あなたの神様はどこにいるの?誰の背中を追いかけながら、煌々と染まった落ち葉の中を歩んできたの?前を歩く背中が見えないのでしょう。見ようとしなかったのでしょう。自分より、しっかりと歩んでいるその背中を見ることに、躊躇いを感じて、目を逸らしてきたのでしょう。

だから、あなたの視線の先はいつも自分の足元ばかり。ずっと自分の過去と対峙しながら生きているのでしょう。

だからね、この地に雪は降らないの。白く美しく、恐ろしい程に純粋な雪は降らないの。だからね、最後までこの食器棚から見届けてあげる。あなたが、落ち葉の中で埋もれていくところを。

もしも、あなたがこの地を抜け出して、雪の降る白い絶望の地へ辿り着いたら、私は跡形もなくバラバラになって消えるわ。それじゃあね。


カランッ


小さな音を立てて、青い琺瑯の小皿はそれきり喋らなくなった。AM.5:00。新聞配達のカブのエンジン音が、忙しなく街を駆け抜けて行った。

 

一陽来復、揺蕩う寒月。

2019年元旦、少しだけ春の香りがした。

 

冬の人恋しさにかまけて出てきた話。昔、大好きだった人が結婚した話だとか。

初めは何か遠い国の御伽噺を聞いた時のようにしか思えなかったけど、偶然あの子のインスタの苗字が変わっていることに気づいた時、御伽噺は確かなリアリティを持って目の前に現れた。

ずるいよね。しっくりくるもの、名前が変わってしまっても。

当たり前のことなのだけれど、自分がふと目を逸らしている間の空白の時間というものは、あまりにも大きすぎて、僕ひとりのキャパシティで受け止めきれるようなものではなかった。

相変わらず、僕は何者にも為れていないし、誰でもない人との傷の舐め合いに甘んじている。それは愛の根拠でも、優しさの象徴でも何でもなくて、ただのエゴイズムの塊。それでも、そんな最低な時に限って、お酒と煙草は最高に美味しい。

 

みんな、僕を置いてどんどん幸福の地へと歩みを進めていて、少し寂しくなったけど、何だかそれでいいような気もします。そう、それでいい。みんな幸せになって。

 

新年、明けましておめでとうございます。

年が変わったからといって、何か心境がガラッと変わるわけではないけれど、今年も動物や自然に対しての愛を忘れず、些細な物事に対して優しい眼差しを向けながら、自分の速度で歩みを進めていこうと思いますので、何卒この陰鬱で最低だけど最高なブログ共々、よろしくお願い致します。

 

追記:幸せに。

抜け殻

また抜け殻をどこかに落としてきてしまった。

歯ブラシだったか、おそろいのマグカップだったか、それともスリッパだったか定かではないが、どこかに落としてきてしまった。たぶんあの部屋なのだろうと若干検討はつくのだが、探しに行くつもりはない。

抜け殻を落としてしまうことは以前にもあった。決まってどこに行ったのか分からなくなるし、何が抜け殻だったのかも分からなくなるときもある。そして、そのうち落としてしまった事実さえも忘れてしまう。

先日。数年前の抜け殻がひょんなとこから見つかった。写真だった。何の屈託もない無邪気な笑顔が鮮明に残っていた。押入れの掃除をしていたら偶然見つけたのだ。写真の抜け殻は最もハッキリしている。自らの抜け殻を破り捨てるなんてこともできず、また元の場所に戻した。きっとまた忘れる。

抜け殻はしっかりと処理をしてしまったはずでも、処理しきれてないことが多い。

 

愛と云う名の全て。

日が傾くにつれて雨は上がり、やがて雲の切れ間から満月が顔を覗かせていた。

 

国破れて山河あり。

いつもよりキツめの煙草を、寒さに負けるようにしてもみ消した。

 

何も変わってないよな。

 

ふと、誰に問いかけるでもなく言葉が出てくる。

もう少し楽に生きられるとしたら、俺はもう少しだけ違う自分になれていたのだろうか。卒業旅行や夏季休暇を利用してディズニーシーやUSJに行ったり、ZOZOTOWNで当たり前のように服を買ったり。みんなより逸脱しない範囲で生きていられたら、あと少しだけ楽だったのだろうか。小さなSOSに、誰かが気づいて咄嗟に駆けつけてくれたりしたのだろうか。気がつけば、こんなことでもう20年近く悩んでいる。

思えば、スクールカーストのどこに自分が属していたのか分からない。下なのか上なのか、それとも中間なのか。どの層とも相容れない部分が多かった気がする。もっと単純だったら、どう変わっていたのだろう。

 

弱いな。

もう割り切ればいいじゃないか。

 

そう自分に呟いた。でも、そう呟いた自分がどこから来たのか分からない。心の奥底なのか、それとも薄皮一枚の表面なのか。

例えば明日、僕がドアノブで首を吊ったとして、次にそのドアが開くのはいつなのだろうか。一週間以上は開かない気がする。または一ヶ月以上。

 

お酒はダメだね。悲しい想像ばかりが増幅してしまう。もっと楽しく飲めたらね。

 

愛という名の全てを知ってしまったわけではないけれど、もう何が愛なのか分からなくなっちゃったな。ただ、若いからで済まさないでよね。大丈夫なんて無責任に言わないで。

北の町で(1)

北の小さな田舎町の外れに地獄があるという。

 

日本海に面したその断崖絶壁の話を、幾度となくメディアで耳にした。地球が人間の生まれる遥か昔、恐竜たちが地球を我が物顔で闊歩する時代から長い時間を経て、その岩肌を禍々しいものに作り上げたという。

 

その断崖から少し離れた場所に、「いのちの電話ボックス」というものがあるらしい。物憂いを感じさせるように、ひっそりと佇むその電話ボックスは、強い死の意思を抱いてこの土地に脚を運ぶ人々のために置いてあるのだとか。中には無数の十円玉と一冊の新約聖書、それから銘柄のバラバラの煙草が無言で置いてある。顔も知らない誰かが、死を考える誰かのために添えて帰るらしい。その話を聞いた時、妙な心持ちがした。電話ボックスに添え物をして帰る人々は、キリストのような存在なのだろうか。そのキリストの添え物を見て、あの電話ボックスの受話器を手に取った人はどれ程いるのだろうか。

 

実際に訪れたい、あの崖を。

見たところで、どうとかなるわけでもない。ただ、何故かあの地に行けば分かることがある気がするのだ。何が分かるかと言われても、具体的には説明できない。それでも、今のうちに行かなければいけない。

 

 

若さというものは危うい。ただ、今はその危うさに身を委ねてもいいだろう。

僕らの時代に名前をつけてよ。

「ねえ、年賀状って何枚出すの?」

 

急にそんな質問が来るとも思ってなかったので、不意に聞かれて面を食らった。水曜2限の授業終わり、徐々に閑散としていく教室の片隅。

 

「そうだなあ、今年は出さないかも。」

「ふーん、そっか。まあ、今の時代はSNSで何とかなっちゃうものね。」

 

それから、会話は程なくして終わった。

教室を出て昼食を適当に済ませ実習室に移動し、パソコンの電源を入れる。

ふと、先程の会話を思い出していた。

「今の時代」。強い言葉だ。自分たちはまだこの時代に生きているぞと思わせてくれる、強い言葉だ。

 

 

最後に年賀状を送ったのは、確か5年前の春。

あれ以来、年賀状というものはポストに投函していない。

「今年は」と差別化したけれど、実は「今年も」なのだ。

 

2018年12月、年の瀬。

師走。

平成最後の冬。

 

最後に年賀状をもらったのは誰からだったか。

最後に一番笑ったのはいつだったか。

最後にあの土手の桜を見たのはいつだったか。

最後にあの動物園のオットセイに魚をあげたのはいつだったか。

最後にあの駄菓子屋で買ったものは何だったか。

 

最後にあの海に沈む夕陽を見たのはいつだったか。

最後に幼馴染と殴り合いの喧嘩をしたのはいつだったか。

 

最後に好きだと心の底から思ったのは?

 

最後に手を繋いだのは?

 

最後に裸で抱き合ったのは?

 

最後に、今まで一番好きだった人は?

 

眼下に広がる僅かな泡沫の記憶。

さようなら、僕らの時代。